6.海炭市へ

海炭市に向かう飛行機は、満席に近い状態でした。
黒っぽい背広を着たビジネスマンに混じって、お年寄りと若者の姿が目立ちます。むしむしした鬱陶しい梅雨を抜け出し、オフシーズンの観光を楽しもうという魂胆のようです。お陰で、僕のカジュアルな格好も目立たないで済みそうです。僕は、ブルージーンズと黒いラガーシャツを着て、三つ並んだ座席の中央に座っています。

通路側に座った祐子は、ワンピース姿です。麻と絹の糸で織り上げた、細かい矢絣を散らした服地は、祐子の作品だそうです。遠目には全体が淡いパープルに見えます。品がよく、とても祐子に似合っていますが、身体にぴったりとフィットしたノースリーブのデザインは、やはり目立ちました。おまけに素足の足元が白いサンダルなのですから、ファッショナブルに過ぎたようです。

性を遠ざけて暮らす祐子が、時にびっくりするほどセクシーな装いをするのですから、不思議なものです。抑圧された欲求が無意識に溢れ出るのでしょうか。僕には理解できません。
祐子を盗み見する視線が飛び交います。
好色そうな男たちの目が不快です。僕の隣の窓際の席からも熱い視線を感じました。席にいるのは少年です。僕より小柄で童顔ですが、ほとんど変わらない歳に見えます。引き締まった健康的な身体に、白いオックスフォードのシャツと紺のチノパンツが似合っています。

飛行機が離陸してシートベルトを外したときから、少年はずっと僕たちの方をうかがっていました。一人旅がつまらないのでしょうが、僕を通り越して祐子に注がれる視線は嫌になります。
僕は意識して、彼を非難するように横を向きました。即座に少年が顔を背けて窓を見ます。小さな窓の中に銀色の翼が大きく見えています。翼の先は一面の青空です。つまらない風景でした。視線を落とし、外を見つめている少年の胸元を観察しました。隣りに座ったときから気掛かりだったアンティークなカメラは、ライカM2に間違いありません。白いクロームボディが、真珠のような光沢を見せ付けています。レンズはスーパー・アンギュロン20ミリを装着しています。喉から手が出るほど欲しくなるカメラです。まだ一枚も写真を撮っていませんが、僕は写真家志望なのです。そしてライカは、ぜひ使ってみたいカメラでした。

「M2は実にいいよ」
突然声が響き、少年が振り向きました。僕の熱い視線に気付いたに違いありません。声にうなずいた瞬間、少年が身を乗り出して祐子にカメラを向けます。小さなシャッター音が連続して三回聞こえました。
「勝手に写さないでよ」
祐子の硬い声が飛びました。
「撮られるうちが花だろうが。ねえ兄さん、兄さんの母さんは固すぎるよ。チャーミングだからシャッターを切ったんだ。お袋にはもったいないほどセクシーだよ。きっと、この兄さんをつくったころと変わらないぜ」

「なに言ってるのよ。許さないわ」
少年のぞんざいな言葉に切り返して、祐子が席を立ちました。怖い目で少年と僕を睨んでトイレに向かいます。周囲の乗客が、おもしろそうに聞き耳を立てています。退屈しのぎの、ちょうどよい見せ物を提供してしまったようです。僕は、思わず頬が赤くなってしまいました。
「ねえ、兄さん。君の母さんはヒステリーなのか」
少年がとぼけた声で、再び問い掛けてきました。ますます頬が赤くなります。
「母じゃないよ、友人だよ。それに、僕は君の兄さんじゃない」
思ったより厳しい声が出ました。今度は少年の頬がぱっと赤く染まりました。端正な表情に育ちのよさがにじみ出ています。いくら悪ぶっていても、ピンチに立ったときの脆さは隠せないものです。でも、追い詰められれば、切れてしまうのが僕たちの世代の特技です。祐子と違って、僕は少しも傷ついていないのですから、和解の手を伸ばすのが得策です。

「僕は進太、十五歳になる。君のカメラはすてきだけれど、撮影テクニックもすごいね。モーター・ドライブがないライカで、瞬間的に三回もシャッターを切った。プロ並みだよ」
歯の浮くようなほめ言葉ですが、半分以上本心でした。少年の頬がますます赤く染まり、小さく鼻を鳴らしました。
「あんたは、やはり兄さんだよ。俺は伊東晋介、中学三年生で十四歳。でも、カメラはプロ級だよ。今日は海炭市の写真コンテストに招待されたんだ。ほら、これ、見ておくれよ」
得意そうに言った晋介が、尻ポケットから四つに折り畳んだパンフレットを差し出しました。表紙には、大きな活字で「日本一の夕日・写真コンテスト」と刷られています。
晋介が、小さな活字を指差しました。トップの推薦作品の下に、五つ並んだ優秀作品の一番に伊東晋介の名前がありました。作品タイトルは「夕日のきれいな街」です。カッコ書きのモノクロームの文字が目立っています。

「すごいね。モノクロの作品で一位入選じゃないか。もったいないね。カラーだったら推薦になったかも知れない」
つい大きな声で感想を述べてしまいました。晋介の目が大きく見開かれます。得意満面といった口許から、高ぶった声が響きました。
「モノクロだからいいんだよ。夕日をカラーで撮って、きれいなのはあたりまえ。写真を見る人が持つ、夕日の思い出を喚起させるのが俺の狙いなんだ。タイトルの、夕日のきれいな街は俺の故郷。特定の色で紹介できないほど美しい。兄さんにも、ぜひ見せたいくらいだよ」
晋介が誇らかに言い切りました。少年の奢りは共感できます。僕のように隠そうとしないすがしさが、新鮮な感動を与えました。

「君の言うとおりだ。機会があれば、君の街にぜひ行ってみたい。でも、僕を兄さんと呼ぶのはやめてくれ。進太でいいよ」
親しみを込めて答えると、待っていたように晋介が身を乗り出してきました。
「いや、兄さんは俺より一個年上だから、進太さんと呼ぶよ。俺は晋介でいい。見掛けによらず、俺は礼儀正しいんだ。いいだろう」
提案を聞くと同時に、僕は吹き出してしまいました。怪訝な顔で晋介が見つめていますが、なかなか笑いが止まりません。やっと笑いを納めて口を開きます。

「参ったな。確かに、晋介は礼儀正しいんだろう。でも、先ほど祐子に見せた態度からはうなずけないよ。まるで喧嘩を売っているみたいで、はらはらさせられた」
「ふうん、あの人は祐子というの。俺は女性差別が信条だから、俺の礼儀からは外れていない。進太さんも祐子と呼び捨てにするくらいだから、俺と同じだ。祐子はヒステリーなんだろう。写真を撮ったくらいで、ムキになって突っかかってくる女も珍しい。もし、生理中でないのなら、根っからのヒステリーだよ」
晋介が真顔で答えました。僕は、また吹き出してしまいます。
「祐子はヒステリーじゃないよ。死にたくなるほど、世の中が嫌になっているだけさ。晋介にも、思い当たるところがあるだろう」
「別に、急がなくたって死ぬときは死ねるよ。俺は死にたいと思ったことなんてない。たとえ思ったとしても、思わなかったことにしている。進太さんも俺と同類だろう」
シビアな答えが返ってきました。即座に応えることができません。けれど、晋介の言ったことは事実です。黙って小さくうなづきました。晋介の口許に笑みが広がります。大きな目の輝きが増しました。

「進太さんは、高校生なのか。今時、どうして海炭市に行くんだい。俺も、一緒させてもらって構わないか」
矢継ぎ早に聞いてきました。初対面なのに、ずいぶん好かれてしまったようです。僕の方が面食らってしまいます。意地悪な質問をしてみることにしました。
「答える前に、一つだけ聞きたいことがある。晋介には、友達がいるのかい」
「いないさ」
即座に答えが返ってきました。怒りもせず、傷つきもしません。自信に溢れた声で先を続けます。
「俺の友達は、カメラと空手だけだよ。空手は二段を取った。でも、俺は武道家より、写真家を選ぶことにしたんだ。中学校を卒業したら写真の専門学校に進む。親父が金持ちだから、好きなことをさせてもらうんだ。親父は医者で、俺の知らない女と暮らしている。高校に進学して医大を目指せと説教したから、ぶっ殺してやると言ってやったよ。あんな親父でも命は惜しいらしい。すぐに折れてきて、好きなだけ金を出すと言った。お袋は、顔も覚えていないころに死んだ。あんな親父と寝たお袋は馬鹿なやつだ。祐子に言ったことに嘘はないよ。俺をつくったころのお袋を、写真で表現しようと思っているのさ。だから、蔑視していても女は撮りたいんだ。さあ、次は進太さんの答える番だよ」

晋介は、さり気なく自分の来歴まで話しました。頭の回転も素早いようです。僕の答えをあいまいにさせないように、事前に手を打ってきたのです。意地悪な質問が裏目にでてしまいました。真剣に答えることにします。
「僕は高校生ではなく、無業者なんだ。晋介と同じように、写真家になりたいと思っている。一緒に暮らしてきた、Mという養母がいなくなってしまったんだ。今はMの歴史を尋ねて歩いている。海炭市に行くのもそのためだよ。Mという女性を見極めない限り、写真家になれないと思うからだ。僕は写真を撮ったことがない。まず、ものを見る目をつくろうとしているんだ。プロ級の腕を持っている晋介と一緒に旅をするのは大歓迎さ。これが僕の答えだよ」

「ようし、決まったね。でも、祐子はうんと言うだろうか」
喚声を上げた晋介が、トイレの方を振り返って心細い声を出しました。僕はたまらず吹き出してしまいました。もう、これで三度目です。晋介のエネルギーは相当なものです。彼のお父さんが、殺されると確信しても無理がないほどです。晋介は言ったとおりに殺したでしょう。怖いくらい純粋なのです。
「晋介と一緒に行くのは僕だよ。祐子とも一緒に行く。それだけのことさ。それから、僕の父は死んだけど、母は生きている。もう十年も会っていないが、母が僕をつくったときのことは話しに聞いているよ」
聞かれなかったことを、わざわざ口にしてしまいました。トイレから帰ってくる祐子の姿が見えます。晋介が目で先を促しました。僕は大きく息を吸い込みました。
「僕をつくったときの両親は、素っ裸で後ろ手に縛られていたそうだよ」
「えっ」
小さく叫んで絶句した晋介の目が、妖しく光りました。背筋を真っ直ぐ伸ばした祐子が、席に座ります。なぜか、丸い尻が卑猥に見えてしまいました。


飛行機は大きく旋回して、海峡から陸地へと突っ込んでいきます。
西に面した窓から、真っ赤な夕日が射し込んできました。晋介の横顔が黒いシャドウになり、斜光を浴びた輪郭が黄金色に輝いています。一瞬、機内全体が射し込んできた夕日で赤く染まりました。着地のショックが全身に伝わってきます。山の端に日が隠れ、薄暮の滑走路を照明灯の光が照らし出しています。空中の夕日は余りにも短命でした。

僕たちは乗客の列に紛れてターミナルに向かいます。
「肌寒いわ。進太も上に何か着なさい。風邪を引くわよ」
気忙しい声が、耳元で響きました。祐子が、受け取ったばかりのボストンバッグを開いて、黒いカーディガンに袖を通しています。僕は聞こえなかった振りをして、ディバッグを右肩にかけました。確かに肌寒さを感じますが、僕のラガーシャツは長袖です。ノースリーブの祐子は標準になりません。
横にいる晋介は、手荷物すら持っていません。首から下げたライカと、ウエストバッグだけの身軽ないでたちです。

「晋介は、着替えも持ってこないのか」
口うるさい祐子を無視するように、晋介に声をかけました。
「着替えなんて、どこでも売っているさ。ライカと金があれば十分。金は持っているよ。みんな親父の泡銭だ」
つまらなそうに答えた晋介が、ウエストバッグのファスナーを開いて中を見せます。エルマーの90ミリ交換レンズがひときわ輝いています。三本のイルフォードのフィルムの横に、シルバーのマネークリップで留めた一万円札が見えました。二十枚以上あるようです。ジッポーのライターと紺色のショート・ピースの箱も入れてあります。
「煙草を吸うのかい」
思わず聞いてしまいました。晋介の頬が赤く染まります。
「吸うのは食後だけだよ。今時、煙草を続けているなんて恥だよね。調子に乗って見せるんじゃなかった」
中学三年生の台詞です。僕はまた吹き出してしまいました。晋介は本当にユニークです。祐子が怖い目で睨み付けています。
僕と晋介は肩を並べて、祐子に追われるようにしてタクシー乗り場に向かいました。
タクシーで二十分ほど走ると、もう海炭市の駅前です。


「へー、わりと都会的だ。路面電車が走ってる。レトロだよね」
闇の中でスパークする架線の火花を見上げて、晋介が叫びました。
僕たちも晋介も、宿の予約はしてありません。今夜の宿は駅前のビジネスホテルに決まりました。ツインとシングルの部屋を頼んで、僕と晋介が同じ部屋に泊まることにしました。
祐子は晋介のことを無視しています。しかし、同行することに文句は言いません。明朝の、霜月との再会に気持ちが行っているのでしょう。僕には好都合です。ナーバスな祐子の相手をまぬがれるうえ、愉快な晋介と一緒の部屋に泊まれるのです。

部屋に通る前に、祐子の指示で、ロビーで予定の確認をすることにしました。小さなテーブルを挟んで僕と晋介が、祐子と向かい合います。不満顔の晋介が、真っ先に口を開きました。
「まず、飯だよ。進太さん、イカソーメンと味噌ラーメン。俺は腹が減って、死にそうなんだ。さあ、街に出ようよ。予定の確認なんて、食べながらでもできる」
晋介らしい健康的な提案です。僕も空腹感が込み上げてきて、即座に同意したくなりました。祐子が僕を見つめて、首を左右に振ります。

「進太、明日は、霜月と弥生のお父さんに会うのよ。土地の人たちが自慢する夜景を見ておいた方がいいわ。Mも、見たかも知れない。美しい夜景を見てから、私は弥生の所に行きたいの。ねえ、進太、行きましょう」
僕を誘う祐子の声には、感傷的な響きがありました。特に夜景という言葉がくせ者です。海峡に面した標高三百八十九メートルの山頂から望む海炭市の夜景は、全国的に有名です。しかし、祐子の心を捕らえているのは、甘美な死のイメージに相違ありません。Mの名を出されたとしても、たやすく共感者に仕立て上げられるわけにはいきません。完璧に晋介を無視した態度も、自分の世界にこもっていたい願望を証明しているようで鼻につきます。

「僕も、腹が減っているんだ。晋介と食事してくる」
無愛想な声で答えていました。さみしそうな目で、祐子が僕を見ました。
「決まったね」
晋介の勝ち誇った声が響きました。祐子が眉をひそめて席を立ちます。
「いいわ、あなたたちは食事に行けばいい。私は一人で夜景を見る。デリカシーのない人と、夜景なんか見たくないわ。でも、明日の朝は六時に、漁から帰った霜月と会うのよ。いいわね、忘れないで。ちゃんと起きるのよ。私と進太は、写真コンテストを見に来たのではないわ」
厳しく言い残して、祐子は自分の部屋へ向かいました。
「やっぱり、ヒステリーだ。霜月っていうのは別れた彼氏なのかな。未練がましいな」
晋介が大きな声でつぶやきました。祐子の名誉のために、僕は霜月や弥生、そしてMの話を晋介に話すことにしました。
たっぷり、一時間はかかってしまいました。もう腹ぺこです。


駅の横手に広がる市場の迷路にある店で、僕と晋介はイカソーメンを食べました。不思議な味の名物は、Mがシェリーを片手に食べるのがふさわしい料理でした。若い僕たちの口には合いません。
そうそうにラーメン屋に入り直しました。さすがに本場物の味噌ラーメンは腰があっておいしいものです。煤ぼけたカウンターで食べる味は、また格別でした。午後八時半を回った店内は空いています。同じカウンターの隅に、高校生に見える二人連れの男たちがいるだけです。さっと店内を見回した晋介が、ウエストバックからショート・ピースの箱を取り出しました。両切りの煙草を一本抜き取り、口にくわえて、シルバーのジッポーで火を点けます。カシーンと金属音を響かせてジッポーの蓋を閉めると、気持ちよさそうに白い煙を吹き出しました。

「ウー、うまい。食後の一服は堪えられない。これだから、煙草はやめられないんだ」
爺むさいことを言って、指先の吸い差しから立ち上る青い煙に目を細めました。とたんに、レジにいる小母さんが、怖い顔で僕たちを見ました。二人の高校生も身を乗り出して睨み付けてきました。なんだか険悪な雰囲気が立ちこめています。けれど、晋介は一向に気にしていません。
「進太さんも吸ってみれば」
平気な顔で煙草を勧めます。もう辟易です。
「僕は煙草を吸わない。さあ、もう帰ろう」
大きな声で言って立ち上がりました。真っ直ぐレジへ向かい、うつむいたまま二人分の勘定を払いました。晋介は煙草をくわえたまま、先に扉を開けて外に出ます。
「ごちそうさま、おいしかったよ」
上機嫌な声で言って煙草を吸います。僕は答えずに歩き始めました。横に並んだ晋介に小声で注意します。
「人前で、煙草は吸わない方がいいよ。トラブルの元だ」
聞こえているはずなのに、晋介は答えません。小さく肩を揺すってから、吸い差しを路面に投げました。憎々しげに右足で踏み消します。

「おい、子供が煙草を吸っていいのかよ」
突然、ドスの利いた声が響き、肩を怒らせた二人連れが晋介の前に立ちはだかりました。先ほどラーメン屋にいた高校生です。ずり落ちたズボンを穿いた姿は、相当崩れている様子です。慌てて周囲を見回しましたが、僕たちのいる路地に人通りはありません。十メートル先にちっぽけな街灯が灯っているだけです。ラーメンを食べて熱くなった身体が、急激に寒くなってきました。
「よう、いいのかって聞いてるんだ。返事をしろよ」
体の大きい方が、晋介が首から下げたライカの下げ紐を掴んで、なおも因縁を付けます。高校生は、晋介より頭一つ大きな身体をしています。微かに、アルコールのにおいがしました。自分たちは隠れてビールを飲んでいたに違いありません。とんだ言い掛かりです。小銭目当ての恐喝なのでしょう。

「オラッ、口がねえのか」
叫ぶと同時に、カメラの下げ紐を揺すりました。その瞬間、晋介の全身から強い怒りが放射されたのが分かりました。発散されたエネルギーが、僕の身体まで伝わってきます。
「ウルセイ、ゴミに説教されるいわれはねえんだ」
大声で叫ぶと同時に、晋介が高校生の股間を蹴り上げました。ウッと呻いた高校生が股を押さえて路上に屈み込みます。その顎を素早く蹴り上げました。のけ反って倒れた仲間を見て、もう一人が殴り掛かってきます。さっと身体を下げて一撃を避けた晋介が、立ち上がり様に正拳を突き出しました。ポキッという乾いた嫌な音が響きました。高校生が悲鳴を上げてうずくまります。
「鎖骨が折れただけさ。汚い手でライカに触った罰だ」
倒れた高校生に平然と言って、晋介が僕の手を取ります。足早に路地を抜け、メイン・ストリートに出て、ホテルに向かいます。なんとも手慣れた喧嘩のやり方に、僕は舌を巻いてしまいました。

「あれっ、スーパーアンギュロンのレンズキャップを落としてきてしまった」
ショーウインドウの明るい光に浮かび上がった胸元のライカを見て、晋介が情けない声を出しました。
「俺がぶっ切れるときは必ず損をするんだ。これでもう三度目だよ。嫌になる。ねえ、進太さんも、俺が切れそうなときは止めてくれよ。もう損はしたくない」
とんだところでお鉢が回ってきました。でも、少しも嫌味がありません。気楽に声を返しました。
「晋介とは今日会ったんだ。切れるところも初めて見た。確かに、相当なもんだね。損をするのは当たり前だ。でも、相手は損どころじゃない、重傷だよ」
僕の答えを聞いて、晋介が立ち止まります。お互いに目を見つめ合いました。晋介はなぜか悲しそうな目をしています。Mが見せていたのと同じものです。しっかり見極めようとすると、たちまち悲しみが遠ざかり、けろっとした表情に戻ってつぶやきました。

「進太さんの言うとおりだ」
目を伏せて笑い出します。僕も笑いました。二人の笑い声が海炭市のメインストリートを流れ去っていきます。僕は、極めて壮快な気分になりました。
この半年の間、絶えてなかった痛快な気持ちです。Mを捜しに来た海炭市で、思っても見なかった感情が僕を包み込んだのです。そして、この気持ちをもたらしたのは、知り合ったばかりの晋介に他ありません。心の底から全身に押し寄せてくる、波動のようなものを感じました。変化の予兆のようです。
弥生のお父さんと、霜月の二人に対峙する勇気が湧いてきました。


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