5.過去から届いた薬

市に帰ってくるまでに、雨は上がりました。
夕闇が迫った駅前広場は、黒く濡れたアスファルトの上で水銀灯の青い光が輝いています。見上げた高架の上を、光の帯となって電車が走り抜けていきました。
それほどの人出ではないのですが、先ほどまでいた鉱山の町に比べると都市の雑踏を感じさせます。市まで送るという、村木さんの好意を断ってよかったと思いました。

別れてきたばかりのナースの言葉を借りれば、村木さんは鉱山の町と運命を共にする、かわいそうな人です。きっと、市なんかにはいられねえと悪態をついて、そうそうと帰ってしまったことでしょう。そして、Mの言葉を借りれば、市は多くの死に彩られた街ということになります。けれど、僕はこの市が嫌いではありません。なんとなく悪魔的な雰囲気があって、正直に言うと蔵屋敷がある山地よりも好きです。山地に逼塞して、僕を育てることを決意した、Mの誤解を正したくなります。

僕も幼いころ、この市で実母の睦月と暮らしていたのです。Mと出会ったのも、歓楽街にあるサロン・ペインのアルコールのにおいの中でした。きっと、Mも市が好きだったはずです。「Mの物語」が輝きを増すのは、なんと言っても市が舞台になったときなのですから。市で暮らしたMが、輝いていた証拠です。
村木さんの悪態を聞かなくて本当によかったと思いました。疲れ切った気持ちさえ、この街は浮き立たせてくれるのです。だれもいない山地に帰るのが嫌になってしまいました。足が自然に歓楽街の方向に向かっていきます。
サロン・ペインに行って、チーフと天田さんを相手に冗談を言い合い、二階の会員制ルームに泊めてもらえばいいと思いました。


不景気風に吹かれた歓楽街は、人影も疎らです。
赤と黒を斜めに染め分けたサロン・ペインの看板灯の横に、赤いMG・Fが駐車してありました。祐子の車です。失踪したMが愛用したMG・Fを、愛おしむように使っている祐子は痛々しくてかないません。荒みきった姿に会うことを考えると、回れ右をして帰りたくなります。しかし、ナースの話を聞いた直後に祐子と会えるのも悪い運ではありません。
祐子との対決を嫌がって先送りにしていては、僕の将来まで無為に流れていってしまいそうな気がします。何よりも僕は、祐子のような弱虫ではない。Mがいなくても、現実に立ち向かっていく勇気があるつもりです。
足早に歩いてサロン・ペインの扉を開きました。

「お帰りなさい」
エントランスからガラスの自動ドアを通って店に入ると、チーフの声が響きました。今や、サロン・ペインは、僕の実家のようなものです。
カウンターの中のチーフへ、手を振って応えました。無邪気に微笑んでいるチーフの顔からは、この店の二階でMと一緒に素っ裸で吊り下げられ、糞尿を振りまいて抵抗したという、二十年前の武勇伝は想像もできません。

「進太、早くお座りなさい。おいしいレモン・スカッシュをつくるわ。どう、ナースは元気にしていた。みやげ話を、ゆっくり聞かせてちょうだい」
ホールの中央に立っている僕を、チーフが促しました。チーフの前のスツールに座っている祐子は振り向きもしません。うるさそうに長い髪を揺すって、右手に持ったカクテルグラスを口に運びました。壁の大鏡に祐子の顔が映っています。酔って赤くなった目で、僕を鋭く睨みました。

「進太、Mの足跡を追っているんだってね。お前は、嫌なやつだ」
吐き出すように祐子がつぶやきました。聞こえよがしの大きな声です。三人しかいないホールにつぶやきが響きました。
「そうだよ。祐子の言うとおりさ。今日は鉱山の町に行って、ナースから祐子の話を聞いてきた。バイクのこともね」
何気なく答えたつもりですが、祐子の背筋がブルッと震えました。気忙しくグラスを口に運びます。祐子はMがいなくなってから、強い酒を覚えたのです。無理をして、ドライマティニを飲む姿が無惨に見えます。

「それがなんだというのよ。Mとバイクはなんの関係もないわ。私の過去まで掘り返す権利は、進太にはない」
叱声が返ってきました。
マティニを飲み干した祐子が立ち上がります。着古したジーンズと、白いトレーナーを着た肢体が左右に揺れています。少しも構わない格好で素顔のままですが、すらっとした長身は僕の目にも美しく見えます。今にも崩れそうな危うさが漂ってきました。
僕も負けずに、祐子を睨み付けます。
「権利じゃないよ。Mに対する義務を果たしてるんだ。けして、祐子の過去を掘り返してるわけじゃない。でも、ナースの話を聞いた後では気掛かりもある。今の祐子は、当時のバイクと瓜二つのようだよ。ただ一点を除いてね。一切を失ってしまったバイクは、祐子のお陰で、生きる希望を見出してから死を選んだ。だが祐子は、せっかくの希望を捨てて、夢をMに繋いだんだ。その夢が消え失せてしまったので、立ち腐れの死を選ぼうとしている。そんなのなしだよ。今の祐子には希望がない。バイクとは違う。一度希望を見出した祐子が、怖じ気づいてしまうなんてあんまりだ。バイクの性を受け入れた、十四歳の祐子が僕は好きだ。尊敬している」

言い切ると同時に、祐子の頬が真っ赤に染まりました。手に持ったカクテルグラスを、僕に思い切り投げ付けました。胸に当たったグラスから、残ったマティニが顔に飛び散りました。きついジンのにおいが鼻孔を打ちます。
「祐子、進太はあんたの弟みたいなもんでしょう。弟に意見されたからといって、ムキになるのは大人げないわ。お酒も祐子には似合わない。あんたが店の売り上げに貢献する必要はないのよ。さあ、進太、座りなさい。レモン・スカッシュを飲みながら、ナースのことを話してよ」
赤い顔をして肩を怒らせている祐子を取りなしてから、チーフがカウンターの上にグラスを差し出しました。ガラスの表面に浮いた白い霜を見たら、急に喉の渇きを覚えました。僕は祐子が座っていたスツールから椅子一つ離れて座りました。祐子は立ち尽くしたまま、カウンターの隅に置かれた水槽を見つめています。暗い水の中を、妖しい光を放って無数のネオンテトラが泳いでいます。闇の中を彷徨う様は、まるで祐子のようです。

「さあ、話しなさいよ。ナースは元気だったの」
祐子を無視して、チーフが促します。
「ああ、元気だった。リハビリテーション施設で、看護婦長をしている。老練なキャリアウーマンだった。自信たっぷりで、とても祖母には見えなかったよ。第一線の現役にいるんだから、立派なもんだ」
「そう、ナースらしいわ。ここにいたときもエネルギッシュで、若い私が負けそうだったものね」
「そうそう、若いころのチーフの話も聞かせてもらった。ずいぶん元気がよかったんだってね。Mと一緒に折檻されたことも聞いた。僕も、母の睦月のSMショーは覚えているけど、チーフのショーも見てみたくなったよ」
媚びるように言って、チーフの顔を見上げました。羞恥で赤く染まった頬が若やいで新鮮に見えます。
「何を言うの。私はもう四十七歳よ。乳房が垂れて、お尻も下がってしまったわ。恥ずかしいことを言わないでよ」
怒ったように答えましたが、目は遠くを見ています。この店でMと演じた狂乱を思い起こしているようです。チーフの脳裏では、若くて美しい裸身が乱舞しているのでしょう。目を細めて、一層頬を赤く染めました。まるで少女のようです。

「思い起こすのも恥ずかしいと思っていたけれど、進太のお陰で当時のことを思い出してしまった。やはり懐かしいものなのね。ナースから聞いたのでは、ずいぶん露骨な話だったでしょうね。あのころの私たちは、セックスがすべてだったのよ。身を持って抵抗したのはMだけだったわ。だから私は、Mに惹かれた。Mのように生きたいと思ったものよ。祐子とは違うわ。祐子は、Mに庇護されていたかっただけ。Mを巡るライバルだと思ったこともあったけれど、見当はずれだったわ。Mを恋人と見るか、保護者と見るかの相違だった。ねえ、祐子、そうでしょう」

チーフの矛先が急に祐子に向かいました。Mを巡る相克が、とんだところで再現されてしまったようです。キッとした顔で祐子が振り向きます。
「チーフも進太も、何がおもしろくて私を虐めるのよ。これ以上言ったら、もう許さないわ。確かに、私は無気力な生活をしている。Mがいなくなってしまって、織物だけが残された。斬新な作品を造る能力も情熱もない。もう、みんな嫌になってしまって、死にたくなっていることも事実よ。自閉症が再発しないことが悔しいくらい。でも、これは私一人の苦しみよ。あなたたちに、気安く介入して欲しくない。私の名誉を傷付けるのは大概にしてよ。私だって、Mみたいに生きたかった。自由が欲しかったわ。ただ、能力がなかっただけじゃない。私を軽蔑するのは構わないけど、同情は要らない。ちゃんと自分でけじめるわよ」
肩を震わせて祐子が叫びました。目に涙が溢れています。この場にMがいれば、深い悲しみを感じ、優しく祐子を抱き寄せてくれるのでしょう。しかし、Mはもういません。祐子の叫びと涙が虚しく宙に舞います。

祐子とチーフの暗黙の合意が、僕に発言を求めています。僕はMの代わりはできないし、黙ってこの場の雰囲気に耐える気力もありません。破局を覚悟で口を開きました。
「祐子、同じ死ぬなら、バイクみたいに希望の中で死ねよ。バイクとのセックスは、祐子にも希望を与えたんだろう。たとえ、二十年前の十四歳の身体でも、素っ裸になって後ろ手に縛られ、萎びたペニスをくわえて勃起させた喜びは忘れないはずだ。まして祐子は、バイクの甦った性を、進んで体内に迎えたんじゃないか。二人が一体になれた喜びと、目の前に開かれた希望は、どこに行ってしまったんだい。ナースが言っていたけれど、いまさら性を怖れるのはおかしいよ。Mに希望を求めるのは、お門違いなんじゃないか。いい加減で、昔の勇気を奮い起こせよ」
思いの丈を言ってしまうと胸がスッとしました。チーフが目を細めてうなずいています。しかし、突っ立って聞いていた祐子の肩は、怒りで震えています。身体をふらつかせて右足を上げ、床を激しく踏み鳴らしました。
「うるさい、セックスも知らない子供の説教は聞きたくない。私は自分でけじめると言ったでしょう。ちゃんと希望もあるんだ。チーフ、お水をちょうだい」
断言した祐子が、チーフに向かって手を伸ばしました。チーフが大きなグラスに氷を入れ、水を注いで手渡しました。ちょうどよい水入りです。
僕はホッとして、レモンスカッシュのグラスに手を伸ばしました。祐子が大きく息を吸い込んで、静かに吐き出します。酔いが遠ざかり、表情にも冷静さが戻ってきたようです。ジーンズの尻ポケットから白い封筒を取り出し、カウンターの上で逆さに振りました。赤と白の小さなカプセルが六錠転び出ました。赤が三つ、白が三つの同数です。凶々しい色合いでした。
祐子が赤いカプセルを素早く摘んで、口に入れます。グラスの水を含んで一気に嚥下しました。僕もチーフもあっけに取られて、祐子の仕草を見守りました。

「なんの薬なの、自閉症が再発しそうなの」
チーフが緊張した声で尋ねました。祐子は答えません。じっと目を閉じて何かを待っているような様子です。胃の中で溶ける薬の効力を待っているのでしょう。眉間に小さな皺を寄せています。苦痛と快楽がない交ぜになったような、不安定な表情です。
「まさか、祐子。毒薬じゃないでしょうね」
チーフが衝撃的な言葉を口にしました。恍惚とした表情を見逃さなかったのです。でも、祐子は黙り続けています。不気味な沈黙が立ちこめました。僕の不安が爆発する寸前で祐子が目を開き、緊張した肩をがっくりと落としました。
「希望が去っていったわ。チーフ、なぜ毒薬と分かったの」
今度は、祐子がぎょっとする言葉を口にしました。じっとチーフの目を見つめています。醒めかけた酔いが戻ってきたように、身体が揺れています。
「祐子が余りにも官能的な顔をしていたから、直感的に言葉がでたのよ。でも、よかった。毒薬じゃあなかったのね。間違っていて、本当によかった」
心底ほっとした声で、チーフが答えました。

「ハハハハッハハハ、当たりよ、大当たりよ。さすがにチーフだわ。残った五つのカプセルの中の一つは、本物の毒薬。今日は希望の女神が微笑まなかったけれど、後五日の辛抱よ。次も希望を持って挑めるわ。私は希望の中で死ねるのよ。ねえ、分かったでしょう。ハハッハッハハハ」
祐子が身を捩って笑い、酔いの回りきった声を振りまきました。笑いにむせて、屈み込んで嘔吐しました。酒の混ざった臭い胃液のにおいが立ちこめます。祐子の隙を突くようにして、僕はそっと立ち上がりました。屈み込んだ祐子の後ろに回り、素早くカウンターに手を伸ばします。散らばっていた五つのカプセルをかき集め、握り締めました。
「何をするのよ」
見上げた祐子が大声で叫び、僕の足にしがみついてきます。祐子を引きずったまま一歩を踏み出し、手の中のカプセルを水槽に投げ捨てました。
赤と白の五つのカプセルが、熱帯魚が泳ぎ回る水槽に沈んでいきます。僕もチーフも身体を硬くして水中を見つめました。床に尻を着いた祐子も水槽を見上げています。長い時間が経ったような気がします。
まばたきもせずに見つめる水槽の中で、カプセルが溶け始めました。その瞬間、泳ぎ回っていたネオンテトラの群が、パニックに襲われたように揺れ動きました。それで終わりです。小さな魚が次々に腹を見せて浮き上がってきました。暗い水槽を泳ぎ回っていた妖しい光は、跡形もなく消え失せてしまったのです。

「ウアッー」
足下から絶叫が上がり、祐子が身体を揺すって号泣を始めました。チーフが血相を変えてカウンターから飛び出してきます。祐子の前に屈み込んで、力いっぱい頬を張りました。悲鳴が響き渡ります。チーフはなおも二度、祐子の頬を張ってから立ち上がらせました。
「祐子は、最低の女だ。さあ、はっきりした事情を聞かせてもらうよ」
怒鳴りつけて背を叩き、ボックス席に引き立てていきます。僕は肩を落としてチーフの後に続きました。小柄なチーフの背中が、とても大きく見えます。チーフのキャリアも相当なもののようです。


「薬は、十錠送られてきたわ。そのうちの一つに青酸カリが入っているの。三万円を口座に振り込んだら、ちゃんと宅配便で届いたわ。今日飲んだのが五つ目よ。五十パーセントの確率でも死ねなかったのだから、運が悪い。十個一緒に飲めばよかった」
「何を言うの。祐子は運がよかったのよ。危うく死ぬところだった。だれから買ったのよ」
ボックス席に座って啜り泣いていた祐子が口を開き、チーフの叱声が響きました。二人は並んで座っています。僕は祐子の前の席で身体を硬くして二人を見守っています。祐子が大きく啜り上げて、諦めたように口を開きました。
「薬を送ってくれたのは弥生のお父さん。海炭市に住んでいるわ」
「えっ」
今度は、僕が大声を上げてしまいました。

市の繭玉会館でオシショウに射殺された弥生の家族が、北の海峡の街に住んでいることは、Mから聞いて知っていました。しかし、十五年も前のことです。弥生のお父さんが、祐子に毒薬を売るなんて信じられません。
僕の声を怪しんだチーフが、睨み付けています。チーフは弥生のことをよく知らないのです。死を選ぼうとした祐子と対決するのは、やはり僕の役目のようです。
「Mの物語」も、新たな展開を迎えます。


海炭市は、佐藤泰志の小説の舞台となった北海道の街です。
海峡の対岸にある都市ですが、現在は海底トンネルで本州と繋がっています。
海炭市で高校教師の父子家庭で育った弥生は、故郷を離れ、祐子や父の修太と一緒に市の国立大学工学部に入学しました。一年浪人しているため、祐子たちより一歳年長です。
弥生は、オシショウと呼ばれる老人が主宰する信仰集団の活動にのめり込んでいきます。惜しまれる人間になることを目指すという、オシショウの教義はエリート学生たちに受け入れられ、工学部に広まっていたのです。祐子も付き合い程度に教義に親しみましたが、内向的な生活を送っていたため、遠くから弥生の行動に憧れるだけでした。

個々人の救いを説いていたオシショウの教義は、やがて、社会改造を目指した思想に拡張されます。学生信者たちの過激な布教活動は、既存の社会と対立を深めていきます。先鋭化した活動は、反社会的行為として指弾され、信仰集団そのものが市民社会から閉め出されてしまいました。
追い詰められた信仰は、自らを防御するために閉鎖性を深め、外部に対して攻撃的になります。行き着く先は暴力です。組織された暴力のみが、社会改造を実現できるという学生たちの夢想が、現実と交錯することになりました。

学生信者たちは、十二人の幹部を基幹にしたテロ組織を創り上げました。社会改造の一環として、固定資産税の撤廃と義務教育の廃止を市に要求します。当然、要求は無視されました。その報復として、組織は市役所を爆破する暴挙に手を染めました。この組織のリーダーが父の修太でした。弥生は広報担当、母の睦月は総務担当の幹部です。市立病院の麻酔医をしていたピアニストは、活動資金の一切を組織に提供し、自らの社会改造の夢を教団に託しました。

Mは当時、市を離れて都会に住んでいました。祐子とバイクの悲劇を見過ごすしかなかったことを契機に、心の底から疲れと悲しさを感じてしまったのです。小さな葬儀社の社員として、ひたすら目立たないように暮らしていました。大晦日の深夜、宿直をしていたMに仕事が入ります。エイズで死んだ青年の死体を、市へ搬送する仕事でした。その死体は、鉱山の町でMが出会った子供の一人である光男だったのです。搬送を依頼したのは祐子を始めとした、Mのよく知っている関係者たちで、ピアニストの名前もありました。光男の亡骸を霊柩車に乗せ、Mは再び市を訪れます。祐子と二人で光男を火葬にした帰路、Mは市役所の爆破に遭遇しました。

警察は待っていたように、ピアニストと修太を指名手配しました。追われる二人を自首させるべく、Mは隠れ家に乗り込みます。しかし、組織を守るために、二人はMを虜囚にしてしまいます。市役所爆破事件でミスを犯した弥生と虜囚のMは、組織の私刑に呻吟します。山地の果てに造られた山岳アジトに移動した後も、無謀な私刑と軍事訓練が続きました。Mは過酷な毎日を弥生に庇護されて乗り切ります。十五歳も年下の弥生とMの間に、強い友愛の絆が結ばれました。

出口なしの状態に陥った組織は、閉塞状態を打開するために苦悶します。危機的な状況の中へ、ハイテクゲーム機メーカーの幹部社員のチハルを利用して、飛鳥という男がやってきました。飛鳥は、二十億円の現金強奪計画を組織に提示します。オシショウが真っ先に、この計画に飛び付きました。逡巡する、修太を始めとしたメンバーを押さえ、ピアニストが犯罪の実行を決断します。
ピアニストに愛情を抱いてしまった弥生は、積極的にピアニストを補佐する道を選び、Mも弥生に続くことを決心しました。二人は、飛鳥が提供した武器で真っ先に武装します。弥生とMが身を持って示した決意が、メンバー全員の志気を決定付けました。

銃撃と、爆破を交えた苦闘の末、四人の犠牲を払いながらも、組織は競艇場の売上金十五億円の奪取に成功します。逃げ遅れた弥生とM、ピアニストの三人を除いたメンバーは、海外へ逃亡するために市の文化センター・繭玉会館に集結します。
繭玉会館でメンバーの帰還を待っていたオシショウと飛鳥は、いとも簡単に組織を裏切ります。帰還したメンバーの大半が二人の手で毒殺され、修太は警察へ突き出す主謀者の候補として捕らわれてしまいました。
遅れて帰還したMと弥生も、オシショウの奸計に陥って捕まり、全裸で緊縛されてしまいます。
最後にやってきた、負傷したピアニストを、オシショウと飛鳥の銃口が狙いました。この危機を脱しようとして、Mが引き起こした拳銃の暴発で修太が死にます。なおもピアニストを狙うオシショウの銃口の前に、弥生が立ちはだかりました。弥生はピアニストへの愛に殉じ、背後からオシショウに射殺されます。

オシショウと飛鳥は、繭玉会館を爆破し、その混乱に乗じた逃亡を準備します。
Mとピアニストの絶体絶命の危機を救ったのは、司法担当の幹部をしていた極月でした。正面玄関で見張りに立っていた極月は、爆裂の音を聞きつけてホールに突入しました。一切を見て取った極月は、有無を言わせずオシショウを射殺します。
すべてが終わった繭玉会館の舞台に、Mとピアニストが無惨な格好で取り残されました。素っ裸で拘束されたMは、極月にピアニストとの性の介助を依頼します。弥生の死を悼んだMが、成長したピアニストに、初めて身体を開いたのです。

この事件に関係した十六人の中で、生き残っているのは、Mと睦月、極月、そして霜月の四人だけです。ピアニストも生き残りましたが、事件の全責任を取り、死刑囚となって自殺してしまいました。
多くの死と暴力に彩られた、この「物語」の中で僕の命も生まれたのです。避けては通れない道です。


「どうして弥生のお父さんと連絡を取ったんだい」
早口に尋ねた僕の顔を、祐子がぼんやりした目で見返しました。もう涙は止まっていますが、悪い酔いが残っている様子です。
「工学部の名簿に、弥生の帰省先が載っていたのよ」
ひどく現実的な答えが返ってきました。祐子の神経はほとんど切れかけているようです。Mがいなくなった半年の間に、祐子の心にそれほどの負荷がかかっていたとは、思ってもみませんでした。見捨てて行ったMが憎らしくなります。
「違うよ。どんな思惑があったか、聞いているんだ」
「恨み辛みよ。Mは、弥生の所へ行ってしまった。でも、弥生は死んでしまったから、代わりにお父さんに文句をぶちまけてやった」

「十五年も前に死んだ弥生に、なんの恨みがあるのさ」
大きな声で問い返しました。祐子の言動は普通ではありません。しっかりと仕事を積み重ねてきた、三十七歳のテキスタイル・デザイナーがぼろぼろになってしまったのです。ナースは、Mは異常者でないと言いましたが、Mの不在が巻き起こした影響は異常です。どうしたら事態を収拾できるか、Mに尋ねたくなる気持ちを我慢して、祐子の目を見つめました。

促された祐子が渋々口を開きます。聞こえてきた声には妙な明るさがありました。
「Mが心を開き、心を通わせた女性は弥生だけよ。私と一つしか歳の違わない弥生がMの心を捉えてしまい、そのまま死んでいなくなった。私が望んでいた地位を奪って、逝ってしまったのよ。残された私に、何ができるというの。Mに甘えて迷惑をかけることしかできないじゃないの。そのMがいなくなってしまったのよ。きっと弥生の所に行ってしまったんだ。だから私は、思いの丈を弥生のお父さんにぶちまけてやった。私も死んでしまいたいと訴えたのよ」

残酷な話です。僕の背筋を冷たい風が掠めていきました。十五年前に死んだ一人娘を嫉妬し、死にたいという便りを、娘の父はどのような思いで読むのでしょうか。祐子の行為は非常識に過ぎます。しかし、祐子は、明るい声で先を続けました。
「速達で返事があったわ。Mはここにいないが、私も死んでしまいたいと書いてあった。死ぬときは、いつでも海炭市を訪ねてくるようにとも書いてあったわ。その余裕がないなら、毒薬を譲ってくれるというの。私は、指定された口座に三万円を振り込んだ。三日後に、あの薬が宅配便で届いたわ。説明書も付いていた。十錠のうち一錠に、致死量の五倍の青酸カリが入れてあるというの。一度に全部飲めば、すぐ死ねるし、一錠ずつ飲んでも、十回のいずれかで死ねる。方法は選択しなさいと書いてあった。私は、毎日一錠ずつ飲むことにしたの。赤と白を交互に飲んだわ。五日間飲み続けたけれど、日を重ねるごとに死への希望が高まっていった。でも、もう終わってしまった。まるで生ける屍だわ。海炭市に行きたいな。弥生のお父さんの家に霜月も住んでいるんですって。漁師をしているそうよ。懐かしいわ。狭いキャンパスだったから、同学年はみんな友達なの」
死の先を見るような、虚ろな目をして祐子が口を閉じました。死に至る病という言葉がぴったりです。けれど、その治療が自分でできることに、まだ祐子は気付いていません。
僕の脳裏に、眉をひそめているMの姿が浮かびました。迷い抜いた末に訪ねてくる、僕たちを待っているような悲しい姿です。求められれば与えるという、強固な意志も伝わってきます。祐子が言ったように、Mは海炭市にいるかも知れないと思いました。

僕は、即座に決心しました。
「祐子、一緒に海炭市に行こう。死ぬか死なないか、行ってから決めても遅くはないよ。僕は、Mを捜してみる」
僕の提案を、祐子はぼう然とした顔で聞いていました。やがて、言葉の意味がやっと分かったように、目を輝かせました。

「ええ、Mを捜しに行きましょう。弥生のお父さんが、隠しているのかも知れないわ。もし、本当にMがいなかったら、きっと弥生の所に行ったのよ。その時は、弥生のお父さんに頼んで、もう一度毒薬をもらえばいい。私も、海炭市に行くわ」

横で聞いているチーフが、不安そうに眉間に皺を寄せました。
僕は、大きな声で言い放ちます。
「さっそく行こう。祐子はお金持ちだし、僕も金持ちだ。飛行機の手配は僕がするよ。あっちは梅雨がないから、きっと爽快だ」
決断した、僕の心も爽快でした。無性に喉が渇いています。両足に力を入れて立ち上がりました。
カウンターに残してきたレモン・スカッシュを、一息に飲み干そうと思いました。


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