4.クラブ・ペインクリニックの集い

町立病院は四階建てのこじんまりとした建物でした。
内科、外科、皮膚・泌尿器科、整形外科と診療科目を表示してありますが、村木さんの解説によれば、温泉療法を利用した老人向けのリハビリテーション施設が現在の売り物だそうです。病院の横手に見える大きな平屋建ての建築がその施設でした。県外からも多くの患者が訪れるということで、薄いグリーンに塗られた建物は病院本体より、よっぽど立派に見えます。

「リハビリ部門は、赤字病院の花形施設だ。ナースはそこの婦長だから忙しい。だが、病棟勤務に戻りたいとは絶対言わないよ。あの婆さんは自分の資質をよく知ってるんだ」
玄関の大きな自動ドアを通りながら声高に話す村木さんは、いかにも町幹部といった態度が溢れ出ています。受付にも寄らずに玄関ホールを突っ切り、真っ直ぐ事務長室に向かいます。仕方なく僕も従っていきましたが、ホールのベンチに座っている大勢の老人の視線が射るように僕たちに突き刺さります。この町では確かに、村木さんは権力者の一人なのです。僕は居心地の悪さに冷や汗をかきながら、事務長室に入っていきました。

「リハビリの婦長に会いたいんだが、どっちにいるかね」
大きな事務机の前のソファーに腰を下ろした村木さんが、机の主にぞんざいに声を掛けました。背広姿の初老の男が慌てて立ち上がります。
「相変わらず、課長さんはせっかちだね。今、医局に聞いてみますよ」
男は立ったまま机上の受話器を取って、ダイヤルをプッシュしました。胸の大きな名札には事務長と記してあります。事務長室なのですから当たり前ですが、僕は目を白黒させて立ちつくしていました。

「進太、早く座れよ。ここは役場と同様遠慮は要らない。だが、コーヒーも出ないぜ。もっとも、俺が経費節減で予算を削ったんだから、文句は言えない」
大声で言った村木さんが僕を手招きました。たかが六畳ほどの狭い部屋です。気恥ずかしさで頬が赤く染まってしまいましたが、村木さんの前の椅子に浅く腰をかけました。目の前の村木さんはポケットから煙草を出し、デュポンのライターでおもむろに火を点けます。ここは病院です。灰皿など、どこにもありません。そのうえ村木さんは、煙草の灰を床に落としたのです。僕は目を丸くしてしまいました。

「村木さん、病院は禁煙ですよ」
たまらず身を乗り出して注意しました。初老の事務長さんが受話器を耳に当てたまま、横目で僕たちを見つめています。
「知っているさ。でも、この病院には肺ガンを治せる医者なんていない。禁煙をさせるほど高尚な施設じゃないんだ。俺から予算をふんだくることしか考えないケチなところさ」
平然と言って、村木さんは煙草をくゆらせ続けます。権力のにおいが部屋中に立ちこめてきました。町立病院に来てからの村木さんの振る舞いは、元山沢を案内してくれていたときとまったく違ってしまいました。Mにまつわる史跡巡りに目を輝かせていた村木さんは、Mの懐かしい友達に見えたものです。けれど、目の前に見る村木さんは別人のようです。
Mは権力を嫌っていました。個性から遊離した人格を職業が人に強いるのでしょうか。職を持たない僕には理解できませんし、Mも定職を持ちませんでした。Mが抱いていた悲しみの一端に触れたような気がしました。

「課長さん、ナースは本院の婦長室にいるそうです。ここに呼びますかね」
送話口を手で覆った事務長さんが村木さんに尋ねました。
「いや、俺たちが行くよ。ナースは偉いからな」
ほんの少し目をつむってうつむいた村木さんが顔を上げ、短く答えました。目が笑っています。僕の顔を見て小さく舌打ちしました。
「リハビリの婦長は医者より権限があるんだ。患者のベッドを握っているからな。婦長室だって、施設と病院に二つもある。ドル箱施設だから威勢がいい。でもナースだって、五年前にリハビリ部門ができるまでは泣いて暮らしていたんだ。古くからある病院は上下関係が厳しい。風俗上がりの看護婦が、キャリアを積んだ病棟の婦長に楯突けるはずがない。下積みで泣いていたんだよ。だが、新しいリハビリ部門は、言ってみればサービス業だ。患者の満足と成果が優先される。経営センスが問われる部署なんだ。ナースはうまくはまった。今じゃあ、肩で風切る婦長様だ。総婦長と並んだ部屋まで手に入れてしまった。すまじきは宮仕えだよな。なあ、事務長」
唐突に事務長さんに声を掛けて、村木さんが立ち上がりました。僕に同意を求める風もありません。祖母のナースの悪口を言ってしまったと思ったのでしょう。保身の心がけは立派なものです。僕も立ち上がって事務長さんに頭を下げました。村木さんは、煙草の吸い差しを床で踏み消し、平然とドアを開けて出ていきます。僕は頬を真っ赤にして後に続きました。どれほど村木さんが偉いか知りませんが、非常識な人と同行する恥辱がたまらなかったのです。また、世俗を知らない僕が、村木さんを不当に嫌悪しているような気もしました。難しいものです。

婦長室は三階の北隅に二室並んでありました。
リハビリと書かれたドアを村木さんが無造作に開きます。ノックもしません。村木さんの肩越しに見えた部屋は、四畳ほどしかありませんでした。
「村木さん。いくら役場の課長さんでも、入る前にはノックをしてください。ここは女性の部屋ですよ。いくら役場が金を出しているからと言って、女まで買ったわけじゃないでしょう」
低く厳しい声が響きました。目の前にある村木さんの背がビクッと震え、棒のように固くなりました。僕は痛快で仕方ありません。さすがに我が祖母だと誇りたくなります。
「大層なご挨拶で参ったな。謝りますよ。婦長さんの孫を連れてきたので、喜んでもらおうとして、慌てたんです」
言い訳を聞いた婦長さんの目が光りました。怖い顔で僕を見ました。

「孫ですって。進太なの、進太が来たのね。課長さん、あなたは早く脇に退いて進太を通してください。私は初めて会うのよ」
婦長さんが、大声で言って椅子から立ち上がりました。ドアに手をかけたままの村木さんが、慌てて部屋に入って隅に避けます。婦長さんの視線が真っ直ぐ僕の目に注がれています。僕も鋭い視線を受け止めました。とたんに温かな眼差しに変わります。何とも言えない通い合う気持ちが往復しました。僕の目が潤んできます。視線の先で、婦長さんの目から涙が落ちました。ドアから三メートルの距離に机があります。婦長さんは机の前に回り、両手を僕に差し出しました。僕は思い切って前に進みます。婦長さんから視線を外し、幾分うつむき加減に歩きました。

「進太、進太なのね」
名を二回呼んで、婦長さんが両手を僕の肩に置きました。思ったより柔らかな手の感触が、肩先から伝わってきます。
「進太、よく来てくれたわね。初めて会うのよ。顔を上げて、よく見せてちょうだい」
言われたとおりに顔を上げました。涙に濡れた婦長さんの目が見えます。喜びと悲しみがない交ぜになった大きな目でした。生真面目で献身的な情熱が顔一面に溢れています。どこか見覚えのある懐かしい表情は、とても初めて会う祖母とは思えません。きっと、Mの話してくれたナースの印象が僕の心の中に焼き付いているのでしょう。僕の目からも涙がこぼれました。

「初めまして婦長さん。進太です。でも、初めてお会いした気がしないのです。ずっと前から知っているような気がします」
「それは、祖母と孫だもの。血が繋がっているのよ」
僕の挨拶への答えは、僕が知っているナースらしくありません。急に、見知らぬ初老の女性があらわれたようで、照れくさくなってしまいました。
「いえ、養母のMから聞かされた印象と、現実の婦長さんがぴったりなので感動してしまったんです。でも、話してくれたMは、半年前に、家を出ていってしまいました」
弁解するように付け足しました。聞いている婦長さんの眉が曇りました。でも、仕方ありません。僕は肉親の血に惹かれたのではなく、「Mの物語」に出てくるナースの生の姿に出会って、改めて感動したのです。

村木さんが手を伸ばし、僕の脇腹を突きました。
「進太、お祖母さんと初めて会って、婦長さんはないだろう。もっと家族らしく喜べよ」
無愛想な僕の態度を責める、村木さんの言葉は正当です。
婦長さんの表情が一瞬輝きましたが、苦いものを飲み下すように目をつむりました。再び目を開いて僕の顔を見ます。さっぱりした献身的な表情が戻っていました。

「進太は、Mと暮らしていたのよね。それが家族というものよ。私が進太を引き取らなかったのは事実だから、家族らしくなくても仕方がない。Mの家出をいいことに、いまさら、お祖母さんと呼ばせるほど恥知らずではないつもりよ。けれど、婦長と呼ばれるには抵抗がある。私のことをMが話題にしたのなら、きっとナースと呼んだはず。進太、私をナースと呼びなさい。ここに来たのも、私に尋ねたいことがあったからでしょう。Mと出会ったころの話でしょうね。私は構わないわ。肉親としてではなく、ナースとして話してあげます」
張りのある声から誠意が伝わってきました。僕は婦長さん、いやナースに深々と頭を下げました。目尻からこぼれた涙がリノリウムの床に落ちます。

「話は決まったわ。これでもう、課長さんの務めは済みましたね。村木さん、進太を連れてきてくださって、本当にありがとうございました。これから進太とプライベートな話をするので、どうぞ席をお外しください」
ナースが村木さんに向かって慇懃に声を掛けました。村木さんは泡を食ったように、目を白黒させています。救いを求めるように僕の顔を見ました。僕は知らない振りで頭を下げ、視線を足下に落としてしまいました。
「先輩の陶芸屋と同様、この家族はどことなく冷たいんだよな。まあ、俺はつんぼ桟敷には慣れているから、陽子さんの好きにすればいいさ。進太、俺は事務長室にいるから、話が済んだら寄ってくれ。駅まで送るよ」
部屋を出ていく村木さんが、捨てぜりふのように言いました。けれど、少しも権力的ではありません。先輩の妻だったナースの名を口にした声は、意外に若々しく響きました。ナースの口元に苦笑が浮かびます。大きな音をたててドアが閉まりました。僕の表情を見て、ナースが大きくうなずきました。

「進太の目には、村木さんが横柄に見えたかも知れないね。私でも、しゃらくさいと思う。でも、あの人は鉱山の町から出たことがないのよ。このちっぽけな町と運命を共にするのだから、かわいそうだ。その一点で町民は彼の振る舞いを許しているの。同じ立場の人たちが自分の生涯を信託しているわけ。町に未来がない証拠だけれど、だれもが明るい将来に向かって歩いていけるわけじゃない。縋り付くことができる現在が大切なのよ。その意味で言えば、Mと出会った二十年前の私は、村木さんより、もっと尊大に見えたかも知れない。あのころの私は、生死の境を彷徨っている人のすぐ隣にいたの。今では少し離れたところに身を置けるけど、やはり同じ地平に立っているわ。Mのように高みから見下ろしてはいない。物見遊山の観光客はお断りよ。だから、Mと私は、生き方も考え方もまったく違うの。進太には、まずそのことを知っておいて欲しいの」
ナースは真っ向から本題に切り込んできました。さすがにベテランの医療技術者です。無駄がなく、遠慮もありません。念を押された僕の方が、問題の整理に追いつけません。慌ててうなずいてから首を左右に振り、たまらずMを弁護してしまいました。

「ナースも村木さんも、常に現場にいることは分かります。でも、だからといって、Mを観光客と断じるのには抵抗があります。Mは自分の責任と人格で現場に入り、皆さんと同じ地平で行動したじゃないですか」
ナースを非難する口調になっていました。しかし、ナースは動じません。
「現場に入り込んで行動する根拠のことを、私は言っているの。Mの場合は、行きずりの人が勝手な価値観を現場に押し付け、混乱を楽しんでいたとしか言えないわ」
はっきり、断言しました。
話は始まったばかりなのに、もう終幕を迎えたような雰囲気です。焦りと悔しさが込み上げてきます。泣きべそをかいている自分の顔が脳裏に浮かびました。
ナースの口許に苦笑が浮かびます。
「せっかく進太と話し合えるのに、結論を急ぐことはないわね。さあ、この椅子に座りなさい。ゆっくり話し合いましょう」
優しい声で言って、ナースが折り畳みのパイプ椅子を広げてくれました。緩急自在の対応に翻弄されてしまいそうです。
大きく息を吸って、僕は勧められた椅子に座りました。しばらくうつむいて「Mの物語」を思い返してみます。


Mとナースが出会ったのは二十年前。Mが鉱山の町を立ち去ってから五年後のことでした。場所は、市の歓楽街にあるスナックのサロン・ペインです。
それまでナースは、都会の病院で看護婦をしていたのです。終末医療の看護が得意でした。それも、ナース独特の看護法です。末期ガンの患者の全身を襲う激痛を、自らの性で癒そうというものです。患者に残されたはかない生が、今生の思いを込めてナースの肉体を求め、官能を追います。極まりに向かう官能がガンによる苦痛を忘れさせ、死の恐怖を癒し、生への希望をかき立てるのです。このナースの看護の理解者が、医師の卵のピアニストでした。ピアニストは都会の医大で学びながら、ナースの勤める個人病院で、夜勤医のアルバイトをしていたのです。

二人が勤める病院に、心中未遂事件で骨折したSMショーの女優が入院します。この女優が、現在のサロン・ペインの女店主のチーフです。病室で付き添っていたスキンヘッドのママとチーフは、偶然ナースの体当たりの看護を目撃して、感激してしまいます。ピアニストとママは肉体の苦痛を癒す看護を、精神の苦悩を癒す事業に拡大することを夢想しました。チーフの演じるSMと、ナースの看護体験を利用した会員制クラブの設立を決意します。
ママとチーフ、ナースの三人は市を訪れ、ピアニストの父の歯科医の資金援助を得て、会員制クラブ・ペインクリニックを開設しました。そのクラブの階下に開店したのがサロン・ペインでした。
夕刊紙の記者をしていたMは、にわかバーテンダーのチーフがつくるマティニが気に入って店を訪れるようになったのです。六年振りに、Mがピアニストと再会したのもこの店でした。

「Mは、サロン・ペインの客に過ぎなかったわ。たまたまピアニストと知り合いだったから、下半身の不随と性的不能の障害を抱えていたバイクの治療に立ち会っただけよ。どう見ても、興味本位の傍観者としか言えない態度でね。それが、鉱山の町で面倒を見た祐子が、治療の協力者になったら急変した。クラブ・ペインクリニックを目の敵にしたのよ。自分本位に行動していた証拠だわ。最後は非を認めて祐子に鞭打たれることを受容したけれど、その時はもう、一切が終わっていた。ママとピアニストが夢を捨ててしまっていたの。Mが巻き起こした混乱の結果よ」
会話の先を促すように、ナースがまくし立ててきました。
僕は、力なく顔を上げてナースを見ました。小さくうなずいてから、またうつむいてしまいました。ナースの言ったことは、大筋で事実と相違ありません。急いで祐子とバイクの関係に思いを馳せます。

バイクは、ピアニストと天田さんの高校時代の同級生で、抜群の成績を誇っていた優等生でした。学校は、市の進学校として有名な私立の命門学院です。オートバイ好きをからかわれて、バイクとあだ名を付けられましたが、東大進学まではハンドルを握らないと決心していました。
大学進学を控えた三年生の夏休みに、命門学院高等部の伝統行事だった二十四時間補習をサボり、三人はピアニストの家の蔵屋敷に集まりました。男子生徒の憧れの的だった映子も一緒です。ただし、天田とピアニスト、映子の三人は中等部からの同窓で、バイク一人が高等部からの入学でした。映子に焦がれていたバイクは天田の挑発に乗って酒を飲み、コンビニエンス・ストアの駐車場からオートバイを盗み出します。
映子を誘い、念願の夜のライディングを二人で楽しんでいたバイクは激突事故を起こしてしまいます。一瞬のうちに映子は死亡し、バイクは重傷を負い、下半身不随の後遺症が残りました。

事故から五年が過ぎ、車椅子に乗った失意の生活を続けるバイクは、命門学院中等部に通う三年生の祐子と知り合います。二人は近所同士でした。バイクの家の前にある、イベント会場の煉瓦蔵と向かい合って建つマンションの最上階が、祐子の住居でした。
祐子は、父の仕事の都合で市へ転居してから五年になります。鉱山の町でMの勇気に激情した祐子も、日々の倦怠を持て余しながら思春期を迎えていました。せっかく再会したMも、夕刊紙記者に甘んじているような態度がなじめません。五年前の高揚した自分を、なんとかして取り戻したいと焦る毎日です。
祐子に映子の面影を見出したバイクと、バイクに生きる目的を見出そうとする祐子は、互いに好意を抱きます。プラトニックラブという言葉がぴったりでした。

都会の大学を卒業し、福祉事務所のケースワーカーとして市に戻ってきた天田は、クラブ・ペインクリニックにバイクを誘い出します。
ピアニストとママ、ナースとチーフの四人が運営する、苦悩を取り除く性の実験室に、バイクは投げ込まれたのです。そこでバイクは、SMの刺激で性的不能を回復することに希望を見出してしまいます。祐子を抱き締めたいという欲望が、性の回復の希望と短絡したのです。そして何よりも、無為に流されていく自分を変える道に踏み出そうと決意しました。しかし、クラブ・ペインクリニックの治療台で、素っ裸になってチーフとSMに興じる無惨な姿を、Mと祐子に見られてしまいます。

祐子への愛と、性の欲望を巡って、バイクの苦悶は深まっていきます。その苦悶の淵に灯ったまま揺れる欲望の火を、祐子は見逃しませんでした。
絶望から立ち上がろうとするバイクの意志を、祐子は全身で受容することを決意しました。蒸し暑い夏の夜のことです。祐子はMの反対を退け、バイクの家を訪ねます。異臭の漂うバイクの部屋に、祐子は十四歳の裸身をさらけ出しました。
後ろ手に緊縛された祐子が、必死になってバイクの不自由な肉体に挑みます。官能に彩られた気迫が、失われたバイクの性を甦らせようとして真っ赤に燃え上がります。歓喜と戸惑いを抱いて屹立したペニスを、祐子は進んで体内に迎え入れました。バイクと一体になれたという喜びが、バイクと共に変わり、一緒に生きていく自信を祐子に与えたのです。純愛が官能に昇華した瞬間でした。
精神と肉体の苦悩が性によって癒され、弱々しかった二人は、新しい祐子とバイクに生まれ変われるはずでした。

「ナースの看護法のとおり、祐子とバイクは官能の喜びによって新たな生を生きる希望が持てたのだと思います」
つぶやくように、僕は答えていました。
性の高まりに震える、幼い祐子の裸身が目に見えるようです。でも表情は、神経質で口うるさい今の祐子以外に浮かびません。思わず苦笑してしまいました。

ナースは黙ってうなずきます。僕は言葉を続けました。
「でも、お祖母さんと二人暮らしだったバイクは、結局、彼女の死によって祐子と引き離され、施設で暮らす道しか残されませんでした。容赦ない現実が、二人の希望を簡単に摘み取ってしまったのです。バイクは祐子の見ている前で、高等部の屋上から身を投げて自殺してしまいます。せっかく開いた扉が、見る間に閉ざされたことに絶望したのかも知れません。天国の映子と性を結ぶことを祐子に書き残し、これまでの誠意の証として、千切れたペニスを祐子に贈りました。残酷な話です。僕には耐えられません。やはり、Mの言うように、何かが間違っていたとしか考えられないのです」

祐子とバイクに対する痛ましさが込み上げてきて、声が詰まってしまいました。ナースが冷たい視線を床に落としました。
「残酷と言うより、滑稽な話ね。すべてがうまくいっていたのに、バイクのお祖母さんの死で台無しになってしまった。事故みたいなものだわ」
つぶやいた言葉の向こうに、微かな悔恨のにおいがしました。僕は、再び口を開きます。

「そうでしょうか。僕は納得できません。バイクが自殺した高等部の校庭で、祐子の傍らにいて一切を目撃したMは、二人の復讐のためにペイン・クリニックへ向かいましたね。欺瞞に満ちた性の仕組みが許せなかったと、Mは話してくれました。祐子とバイクが、人為的な性の仕組みに強いられて、無理に官能を求めたと理解したのでしょう。性を選ばず、愛を育む道があったと悔やんでいました。その思いは僕にも理解できます。サロン・ペインに殴り込んで、暴力的に店を破損したMの行為は直情に過ぎますが、障害者と少女の淡い情愛を破壊された怒りは納得できます。やはり、精神的な苦悩や無為な生活を、性が癒すという考えは虚しかったのではないでしょうか。バイクは死に、祐子は今もって無為に生きているように見えます。僕はナースに、Mのことより、とりわけ二人の悲劇の原因を聞きたいと思っていました」

気掛かりだったことを言えて、ほっとしました。
じっとナースの目を見つめます。けれどナースは、何事でもないように答え始めました。
「道が二つに分かれたということよ。祐子とバイクが性によって生きる希望を見出したことが事実なの」
尋ねる前に答えが用意されていたようで、僕はうろたえてしまいます。耳に神経を集中させて次の言葉を待ちました。
「心身に苦悩や苦痛を持った者は、楽観的に無視するか、悲観的に落ち込むかのどちらかなの。私は悲観的な者を相手にしてきた。祐子とバイクはいくら愛情ごっこに励んでも、二人で落ち込むしかないタイプよ。愛を育むどころか、滅亡を育むのがせきのやま。二人とも無気力で、日常を否定的に考えていたでしょう。そして、なんとかその状況を変えたいという焦りに身を焦がしていた。問題を解決するには、自分が変わっていくしかないの。私たちは変化の契機を性に求めることを勧めたのよ。官能を追い求めたバイクの性は復活し、祐子はその性を自ら受け入れたわ。二人は見事なほど変わった。生きていく希望が見えたはずよ。この事実が真実なの。確かに、バイクは自殺してしまった。でもね、あの世という彼岸に希望を繋ぐことも、一つの選択肢なの。そして、バイクと一緒に見出した希望が死に彩られたと思って逼塞してしまった祐子も、一つの選択肢を選んだということなの。選択肢は幾つでもある。二度と選び直せないバイクには無理だけど、祐子はいつだって道を変えることができる。何をいまさら性を怖れるのか、私には分からない。きっと、Mの本性を勘違いしていたのね」
ナースは淡々と話しました。明快な答えです。祐子とバイクはせっかく開通した道に入ったとたんに、迷子になってしまったというわけです。医療器具に触れたような冷たさを感じました。自己責任という言葉が頭に浮かびました。そして、最後の言葉が気に掛かります。

「Mの本性という意味が分からないのですが、性格のことですか」
ストレートに、疑問が口に溢れました。ナースが厳しい表情を返します。沈黙が部屋に落ちました。やがて、ナースの口許がはにかむように動きました。幾分リラックスした声が返ってきます。
「セックスのことよ。養子のあなたが聞くことではないわ。養母に対して失礼でしょう」
「いいえ、Mはセックスを恥じたことはありません。逆に積極的だったと思います。ナースが、僕に遠慮する必要はありません」
僕が真剣な顔で断定したのでしょう。ナースが吹き出してしまいました。頬が赤く染まっています。
「あなたは私の孫よ。孫にセックスの話をせがまれれば、だれだって面食らうでしょう。けれど、そんなに真剣な顔になるのなら、私も看護婦として話すわ。進太が、セックスをどれほど理解しているか知らないけれど、一つの経験話として聞いてくれればいい。実際は、自分で体験しなければ結論は出せないの。そのことは踏まえておいてちょうだい」
ナースが表情を引き締めて答えました。謙虚な申し出が好感を与えます。僕は背筋を正してしっかりとうなずきました。

「セックスには、二つの側面があるのよ。一つは肉体の快楽を求めること。もう一つは想像力によって心の快楽を求めること。性欲に基づく肉体の快楽は言うまでもないけれど、人はすべてそれで満足しているわけではないの。性を求め合う者は、互いの官能を確かめながら極まりに向かうわ。肉体を借りて対話をしているようなものね。一人で快楽を求めるマスターベーションでも、想像力で性を夢想するでしょう。夢精も無意識が性夢を想像することで始まる。つまり、二つの側面のバランスが個性的なセックスを創り出すの。だから、人のセックスは千差万別とも言える。どれが正しいとか、悪いとかはない。セックスには、なんでもありなの。でも、傾向として分類することはできる。医学や心理学の仕事ね。そして、偏りが大きすぎる場合を異常というのよ。それだけのことだけれど、個人の社会生活には影響がある。異常なセックスは、性の現場に混乱をもたらすのよ」

「Mのセックスが異常だというのですか」
とっさに問い掛けていました。
元婦警の山形さんと同様、専門的なキャリアを持つナースがMを異常者扱いするのです。問いたださずにはいられませんでした。
ナースの口許に苦笑が浮かびます。
「結論を急いではだめよ。私は、Mが異常者とは言わない。それは医学が判断することよ。でも、さっき話したとおり、人のセックスには傾向がある。Mはセックスを社会的に捉える傾向があったわ。人が出会い、共感を持ち、理解し合う。また、反目し、争い、傷付け合う。それが日常の社会生活だわ。だれでも経験していることだけれど、それをセックスにまで持ち込む者は多くないの。Mはセックスで社会生活に参加することに快楽を感じたのよ。官能を日常に取り込み、快楽を見出せば、毎日がお祭りみたいでしょう。それは生き生きときらめいて見えるかも知れない。けれど、周りにいる者には迷惑になるの。その人たちが迷惑を自覚できない場合は、滑稽なことになるわ。ひたすら振り回されるしかなくなってしまう。混乱の極みよ」
「僕や祐子が、Mに振り回されているというのですね」
「今もって、希望の道に進めないという祐子は間違いないわね。進太も、行方不明になったMの足跡を追っているくらいだから、要注意よ。けれど、最初に断っておいたとおり、私はMと立場が違う。二十年も前の経験で話しているだけ。Mに振り回されているかどうかの判断は、進太や祐子が自分ですべきことよ」

ナースが断言しました。結論を出されてしまったようです。僕にはもう、反論するだけの資料も経験もありません。やはり現在の祐子と対決するしかないようです。最後に、ナースの経験話の根拠を尋ねてみました。
「ナースが、Mのセックスの傾向を断定したのは、いつのことなのですか」
「断定はしないわ。理解したのよ。バイクが自殺した後、サロン・ペインにMが殴り込んできたときよ。チーフまで巻き込んで、さんざん暴れ回ったわ。店を破損された後で、ようやく二人を取り押さえた。ママは怒り心頭に達して、Mとチーフを素っ裸にして縛り上げたの。クラブ・ペインクリニックの舞台の上に二人を吊り下げたわ。両手両足を一つにして吊り下げたから、尻の割れ目が剥き出しになった悲惨な姿よ。二つ並んだ尻を、ママと天田さんが鞭で打ったわ。乱暴者を懲らしめるという日常の場が、異常に偏ってしまったのね。Mは、その場を上手に捕まえた。チーフは、たわいもなく泣き出したけれど、Mは違った。目を閉じて歯を食いしばっていたわ。最初は、気丈に折檻を耐えているのかと思った。でも、なんとなく艶めかしいのよ。よく見ると股間が濡れていたわ。最後に、祐子が鞭で打ったときは歓喜の声を上げた。衆人環視の中で、日常を官能に変えてしまったのね。セックスを社会生活の武器にして戦っていたわ。Mの裸身を鞭打つ祐子は、感激して涙を流していた。あの場で覚めていたのは、私とピアニストと、祐子が連れてきたチハルという少女だけ。後は皆、Mが創造したセックスの世界に巻き込まれていた。祐子は、一番重傷だったと思う」

「なぜ祐子はMを鞭打ったのでしょう」
返ってくる答を予期した上で、あえて尋ねました。
「初めて身体を賭けて挑んだセックスを、Mにないがしろにされたからよ。Mも、そのことを認めていた。残念なのは、祐子がMのセックスの傾向に気付かず、温かく見守られていると錯覚したこと。その時点で祐子は、セックスを捨て去ってしまったのでしょう。Mを鞭打つことで、辛く苦しかった勇気ある戦いを癒してしまった。性が苦悩を癒すのでなく、苦悩が性を癒すと誤解したの。今までしてきたことが逆立ちしてしまったのよ。後はもう、Mに希望を繋ぐしかない。Mは勝ち誇って、最後の攻撃にでた。素っ裸で吊り下げられたまま排尿し、脱糞したのよ。さぞかし快楽の極みだったでしょうよ。チーフもMに倣って連帯した。祐子は、その醜態を感動して見つめていた。鼻を摘んで笑っていたチハルの感性が普通なのよ。あの場を逃げ出していったピアニストの気持ちがよく分かるわ。とんだ茶番ね」
忌々しそうに言って、ナースが口をつぐみました。

キャリアを積んだナースの話は説得力があります。水と油のように見えたMとチハルの関係も得心できました。僕も祐子も、Mとチハルの双方に憧れ、惹きつけられていたのです。けれど、反論する立場になったMはいません。やはり、僕と祐子が判断するしかないようです。

僕は、大きくうなずいて腰を上げました。
「貴重な話を聞かせてくださって、ありがとうございました。経験話と謙遜していましたが、非常に役立ちました。ありがとうございます」
心の底から礼を言って、深々と頭を下げました。立ち上がったナースが優しく頭を撫でてくれました。肉親の温かさが心に染みます。Mのいない市に帰るのが嫌になってしまいそうです。
祖母の声が、静かに落ちてきました。

「進太。あなたは、辛い道を歩こうとしているようで、心配になるわ。でも、私がいることを忘れないで欲しい。そして、生きることだけが大切だとは思わないで欲しいの。万が一、辛くて苦しくて死にたくなったときは、私に連絡なさい。楽に死ねる方法を教えます。けして、片方に偏ってはだめ。選択肢は幾つでもあるのよ。死もその一つ」
どっきりすることを、ナースは僕に伝えました。慌ててナースを見上げました。穏やかな顔が微笑んでいます。当惑した僕には返事ができません。

「ドアまで送りましょう」
温かな声で僕を促します。しかし、ドアまでは三メートルもありません。並んで三歩歩いてドアを開けます。
立ち止まった僕の肩をナースが片手で抱き、首を曲げてうつむきました。うなじにナースの唇が触れます。伸ばした舌が素肌を這い回ります。くすぐったいような恥ずかしさが込み上げてきて、股間が熱くなりました。ペニスが勃起してくるのが分かります。頬が真っ赤に染まりました。ナースの手が股間に触れます。うなじを這う舌が耳の裏に回りました。もう、全身が火照ってどうしようもありません。
ナースは僕の祖母なのです。孫をなぶるナースも異常だし、祖母になぶられて勃起する僕も異常です。高らかに笑っているMの顔が目に浮かびました。

「分かったでしょう。これが異常なことなの。肉親同士の性は日常ではないわ。でも、他人が行えば、異常も日常も境界があやふやになる。Mの攻め口なのよ。だから、Mは異常者ではない。覚えておきなさい」
ナースが解説して、身を離しました。どこの祖母も、みんな説教好きなのでしょう。しかし、体当たりの説教がナースの面目をあらわしています。僕は黙って頭を下げるだけです。

「行ってらっしゃい」
不思議な挨拶と共に、婦長室のドアが閉まりました。僕は、口の中でさようならと答えました。
十分な成果がありましたが、翻弄されっぱなしの対面でした。全身が疲れ切っています。村木さんにわがままを言って、市まで送ってもらいたい心境になりました。


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