3.鉱山の町

暗い空から、絶え間なく雨が降りしきっています。
白い傘を伝った滴が肩に落ち、薄いサマーセーターに染み込みます。梅雨の終わりの雨は温気をはらみ、粘着質の微粒子となって肌にへばりついてくるようです。時刻は正午を回ったところです。僕は傘を上げて、雨脚に煙る水瀬川の対岸を見つめました。
廃墟となった精錬所の全貌は、視界に入りきりません。
リキュールの瓶のような、滑稽な形の煙突の上を白い霧が流れていきます。荒廃した雰囲気は漂ってきますが、鉱山の町の負の遺産である精錬所は、どことなくユーモラスにも見えます。この町で生まれ育った父の修太も、祖母のナースも、環境保護を訴えた祖父の陶芸屋でさえ、心底怒りを持って眺めた風景であるとは思えません。僕の身体の中にも、そんな父祖の血が流れているのでしょう。

身構えてやって来た僕は、裏切られたような気分になってしまいました。しかし、Mは違いました。同じ精錬所の廃墟を目にしたMは、煙害で禿げ山にされた山塊を背にして横たわる廃墟に、我が国の公害の原点が発する、邪悪な意志を感じ取ったと話してくれたのです。


Mが鉱山の町を訪れたのは、二十五年前の早春でした。ピアニストに別れを告げた翌年のことです。水瀬川の下流にある市と鉱山の町は、車で約一時間三十分ほどの距離です。
市の広告会社が請け負った、町の観光パンフレットの製作担当者になったMは、編集方針を決めるために鉱山の町に向かいました。寒風の中を、スポーツカーをオープンにして、颯爽と町役場を訪れます。役場の観光課に勤める村木さんの案内で、Mは初めて精錬所の廃墟と対面しました。
村木さんの恩師である、チェロを弾く住職の寺に招じられたMは、そこで祖父の陶芸屋と出会うのです。

傲岸不遜な陶芸屋の態度は、Mの自負心を激しく刺激したそうです。陶芸屋は十年前にナースと離婚し、小学校六年生の修太と二人で暮らしていました。陶芸屋の性の渇きを見て取ったMはその夜、二十九歳の肉体を武器にして陶芸屋を誘惑すべくアトリエに押し入ります。
積極的に官能を追うMの態度が、陶芸屋の秘められた性に火を点けました。性の嵐が吹き荒れた後で、Mは幼い修太に関心を寄せます。官能を基盤にした三人の暮らしは、半年間も続きました。その間Mは、陶芸屋一家の住む元山沢を産業廃棄物の処理場にする計画に反対して行動することになります。

計画企業の手先である産廃屋と、その妹のカンナの強引な立ち退き工作のため、半年後の廃校が決まっている元山沢の分校に通う修太のたった二人の同級生、祐子と光男が廃坑の中に拉致されます。闇に閉じ込められた冷たい坑道の奥で、Mは産廃屋たちと生死をかけた戦いを演じました。

Mとの死闘の末、闇の底で死を迎えた産廃屋とカンナの遺体は、町の助役の提言で、陶芸屋の登窯で跡形もなく焼かれてしまいます。
Mはこの事件を契機にして、自らの責任と人格に基づき、自由に生きていく道を選び取ったのです。


鉱山の町で暮らした短い間に、Mは大勢の人たちと出会いました。数々の対人関係が入り乱れ、織りなしていく世界の中に入り込んだとき、初めて自分自身の座標が見えたと言っていました。それまでのMは、向かい合った一人と形作る関係の中で生きていました。鉱山の町は、Mに社会と立ち向かわせてくれた町です。
今や住む者のない元山沢に集い会った人たちはきっと、Mが歩んだ道に強い影響を投げ掛けたはずです。とりわけ、修太、祐子、光男の三人の子供たちは、Mに重い責任を負わせました。

その鉱山の町の案内人になったのが、役場の村木さんでした。僕もMのひそみにならい、廃寺になった山門横にポツンと残る電話ボックスから、役場に電話をかけてみました。
五十歳台の半ばになった村木さんは、総務課長の要職に付いているそうです。職名を告げると、交換手の声が緊張したように硬くなりました。

「村木です」
しばらくして、落ち着いた低い声が受話器を当てた耳に響きました。
「お忙しいところをすみません。僕は市でMと暮らしていた者で、進太と言います」
「えっ、M、Mと暮らしているって。ずいぶんかわいい声じゃないか。悪いけど、Mと代わってくれないか。」
最後まで僕に話させずに、村木さんがさえぎりました。電話に出たときと違った、若々しい声が弾んでいます。
「いえ、僕はMの養子で陶芸屋の孫です。進太と言います。Mがいなくなってしまったので、鉱山の町にいたころの様子をお聞きして、捜し出す手掛かりにしたいんです」
村木さんの期待を裏切るようで気が引けましたが、急いで事情を告げました。
「へえ、先輩の孫じゃあ、修太の息子かい。懐かしいな。市から電話してるのか。祐子は元気にしてるかい。いつでもいいから、こっちに来いよ。何でも話してやる。そうか、Mはいなくなってしまったのか。でも、きっと、毎度のことなんだろうよ。なあ、進太。ばあさんのナースは、今じゃ町立病院の婦長さんだ。帰って来いよ」
僕の立場を確認した後、村木さんはオートマチックに言葉を繰り出してきました。Mの失踪にも動じた風がありません。不可思議な信頼感が伝わってきます。声の調子は家族のようです。あげくの果てに、僕の帰郷まで促しました。
忘れられないMのにおいが、受話器から漂ってくるようです。

「じつは僕、精錬所が見えるお寺の前にいるんです。これからお邪魔して構いませんか」
「えっ、恩師の寺の前か。そこは、最初にMを連れていったところだ。よし、すぐ行くから、電話ボックスの中で待ってるんだ。十五分で着く」
強引な答えが返ってきました。有無を言わさない響きがあります。しかし、温かさの溢れた、高揚した声です。つい、冷やかしたくなってしまいました。
「お仕事はいいのですか。助役さんに叱られますよ」
「ハハッハハハ、Mから何を聞かされたか知らないが、助役さんは、もう寝たきりで、市の特別養護老人ホームに入所しているし、俺がいなくても役場の仕事は進むんだ。心配は要らないよ」
楽しそうな笑い声と共に電話が切れました。僕に早く会いたいという、村木さんの熱い思いが痛いほど伝わってきました。なんとなく尻のあたりがむず痒く、鉱山の町に来たことを後悔したくなります。僕ばかりではなく、これから話を聞く対象のMさえも、この町では自由でいられない予感がしました。しかし、待つほどもなく、白いクラウンが水しぶきを蹴散らして電話ボックスの前に止まりました。素早く動くワイパーの向こうに、満面に笑みを浮かべた丸顔が見えます。少しも警戒心のない無邪気な笑顔でした。とても、総務課長の要職にある人とは思えません。僕はあっけに取られ、不似合いな車に乗った村木さんを見つめてしまいました。

「進太、早く乗れよ」
助手席の窓が下り、かん高い声が響きました。
僕は背を突かれたように電話ボックスを飛び出し、クラウンのゆったりしたシートに座りました。オートエアコンのきいた車内は快適な環境です。村木さんが身体を横にして、まじまじと僕を見つめます。
「ほう、修太よりよっぽどいい男だ。背も高いし、顔もいい。ずいぶんMにかわいがられたんだろうな」
はしゃいだ声で感想を口にしました。語尾には、嫉妬の気持ちがあらわになっています。僕は思わず吹き出してしまいました。
「かわいがられたといっても、Mは僕の実母より十七歳も年上ですよ。昔なら、祖母と呼んでも不思議はない」
答えを聞いた村木さんの頬が赤く染まりました。年齢を実感して恥ずかしくなったのでしょう。でも、村木さんにとってMは、今でも二十九歳の若さを保っているに違いありません。村木さんが幼いのでなく、過ぎ去っていった時間が残酷なのです。

しんみりとした空気が車内に漂ってしまいました。僕は大きく息を吸い込み、元気を奮い起こして聞き取りを始めます。
「Mは、鉱山の町で多くの人に出会ったと言っていました。村木さんや和尚さん、陶芸屋に緑化屋さん、分校の先生、助役さん、修太、祐子、光男の三人の子供たち、死んでしまった産廃屋と妹のカンナ、そして多くの住民の皆さん。でも、現在の鉱山の町には、村木さんしかいないのですね。祖母のナースは、この町で暮らしたMを知りません。Mの記憶を聞かせてくれるのは一人きりです」
改めて現実を実感して、僕は口をつぐんでしまいました。運転席に座る村木さんの横顔をうかがってみます。村木さんはハンドルに両手を当てたまま、黙って前を見つめています。薄くなった頭の向こうに、雨に煙る精錬所の廃墟がかすんで見えました。
「いや、そんなことはない。Mの記憶は、この土地の至る所に残っているよ。人の数など問題じゃない。Mが去ってしまったことが問題なんだ。進太だって、Mがいなくなってしまったから、ここを訪ねてきたんじゃないか。ただの話なら、祐子にだって聞けるさ」
突然、村木さんが荒々しい口調で断定しました。沈黙が落ちます。二十五年間に渡るMの不在が、車内を埋め尽くしそうです。無気力に生きる祐子の姿が脳裏を掠めました。鉱山の町の孤独が、僕の心に伝わってきます。

村木さんが横を向きました。対岸に横たわる精錬所の廃墟を見つめて言葉を落としました。
「たとえば、あの精錬所だ。Mが先輩の陶芸屋の家で暮らし初めて一か月が過ぎた、穏やかな四月の夜のことだ。ここから見える構内の桜の木に、Mは素っ裸で後ろ手に緊縛されて吊されていた。ちょうど花が満開で、妖しいくらい美しかった。桜が美しいというより、花吹雪になぶられる裸身が、凄惨な美をかもし出していたんだ。そこは花見コンサートの会場だった。俺はここから双眼鏡で見て、カメラを片手に走り出したんだ。恩師や町医者の奥さんたちで編成した、弦楽五重奏団が奏でるモーツァルトの調べが今も聞こえる。あの光景も音楽も、この精錬所の廃墟や水瀬川に封じ込められているんだ。Mの記憶はあらゆる所にある。昔、Mを案内したように、今日は進太を案内してやる。Mから登場人物の名を、あれほど聞いているんだ。元山沢を見て回れば、俺の記憶など要らないことが、進太にもきっと分かる。Mは今でも、相変わらずここにいるんだ。さあ、行こう」
話し終えた村木さんの態度が、急に生き生きとしてきます。僕まで、Mに会えるような気分になってきました。

「さあ、行こう」
大きく掛け声をかけ、村木さんがクラウンを発進させました。そぼ降る雨の中を、僕たちは元山沢へ向かいます。
水瀬川を渡り、精錬所の大きな門を過ぎると、道は山の中に入っていきます。峠を越えてしばらく走ると、ちっぽけな集落が見えてきました。かつて殷賑を極めた元山鉱を支えた、住民たちの暮らしの跡です。町にも鉱山会社にも、廃屋を取り壊すお金はありません。半世紀を越えた栄華の跡は、自然に包まれて立ち腐れていくだけです。廃校になった小学校の分校さえ、この二十五年間を子供の声を聞かずに過ごしてきたのです。光男の家があり、祐子の住んだ官舎があり、父の修太が生まれ育ったアトリエもありました。

僕は雨に濡れた車窓から、じっと風景を見ていきます。村木さんは、何一つ記憶を語ろうとしません。目に映る事物や建築の固有名詞をぶっきらぼうに告げるだけです。しかし、それで十分です。「Mの物語」の出演者たちは、荒みきった風景の中で、あのときの動きを、まざまざと僕に見せてくれるのです。鮮明な記憶は土地に染み通り、土地と共に当時の時間を呼吸していました。
元山沢に架かった赤錆びた吊り橋が見えてきました。渡りきった先には坑道へ続く入口の扉があります。

「あれが元山鉱の通洞坑だ。産廃屋たちは、ここで死んだ」
村木さんの素っ気ない声が響きました。声と同時に、僕の脳裏に映る光景が変わりました。見る間に雨が上がり、蝉時雨の夏景色が出現します。
通洞坑の入口から山道へ向かって、転びそうになりながら走る、幼い父の姿が見えました。坑内に残されたMのカメラを発見した父が、陶芸屋に救いを求めようと急いでいるのです。闇の通洞坑の中では、先生の折檻を受けて傷ついた祐子の尻を、Mが舌で舐めて癒しているはずです。しかし、驚いたことに、若いMも祐子も顔がありません。
往時の記憶がない僕には、知りすぎている二人の、二十六年前の顔を想像することができなかったのです。まるで仮面劇のように、異様な事件が進行するだけです。もどかしさが、心の底から喉元に込み上げてきました。

「村木さん、元山沢に棲み着いた記憶は、やはり村木さん一人のもののようです。Mに聞いた物語は生き生きと進行しますが、僕にはMも祐子も見えません。実体が見えないのです。お願いです。体験したことを、詳しく話してください」
切羽詰まった声で、僕は村木さんに頼みました。村木さんが寂しそうに笑いました。車を止めて僕の顔をのぞき込みます。目が涙目になっていました。
「進太、微妙な細部まで知ろうとしても無駄だよ。俺の身体の中に棲むMは、俺だけのものだ。元山沢で知り合った人すべてに、Mはそれぞれ固有な思いを残していった。その一つを聞いたって、全体に通じることにはならない。一人一人の思い出の集積がMの記憶なんだ。バラバラにしてしまっては、かえってMが歪むだけだよ。だから、この土地にこそ、Mの記憶があると言っているんだ」
村木さんは、歳に似合わぬ抽象的な答えをしました。僕は不満です。この鉱山の町で、初めて社会的に暮らしたMが、様々な表情を残していったことが事実であっても、僕は村木さん個人の思いが聞きたいのです。村木さんの心の中に棲むMの表情を知る必要があります。さもないと、鉱山の町のMはのっぺらぼうになってしまいます。

僕はMをまねて、性を武器にして村木さんに挑むことにしました。
「村木さんはMとセックスしなかったから、淡泊な記憶を守っていたいのと違いますか」
問い掛けは、村木さんの弱点を突いたようです。
見る間に、村木さんの頬が真っ赤に染まりました。口を尖らせ、怒りに燃える目で僕を睨み付けました。一瞬僕は、殴られるかと思いました。しかし、村木さんは力無く肩を落としてしまいます。怖かった目つきが、急にそわそわしてきました。やがて、苦渋を吐き出すようにして、言葉を口から落としました。
「そうさ、今でも俺は、Mのことをセックス・マシーンのように思っている。そのセックス・マシーンが俺の上だけ素通りしていった。俺に勇気がなかったからいけないんだ。悔いは残る。今もって俺は、M以上の女に巡り会っていない。好きになった女も、好きになってくれた女もいたが、現実と妥協をするのが嫌で、独り暮らしを通してきた。だがな、Mの記憶に縛られていたからじゃないんだ。俺がMに求めたものと、Mが俺に残していったものが違っていたことに気付いたからだ。今になって考えれば、Mが結んでくれた関係は、まんざら捨てたもんではない。Mは友達として接してくれた。いつでも、どこで会っても、Mは同じように接してくれるだろう。Mと俺は友達なんだ。なあ、進太、色眼鏡をかけてMを見るのはよせ。確かにMは異常な官能を追い求めたが、悲しさに敏感だった。Mにとって、性は重要な問題だったかも知れないが、それは一面に過ぎない。Mの持つ底知れない悲しさが、解きほぐされる場所として性を選んだのだろう。何よりMは、人の悲しさに殉じることを自らに強いた。あのエネルギッシュな活力の源泉は悲しさなんだ。そして俺は、Mの友達として、悲しさを共有したんだよ。多種多様な関係が入り乱れた中で、Mは躍動したんだ。少なくとも、鉱山の町で暮らしたMはそうだった。今の俺に友達はいないが、Mの記憶を誇らしく思っているよ」

熱のこもった声で話し終えた村木さんの目から涙がこぼれました。日本海で会った木村さんもそうでしたが、Mと知り合った男の人はよく泣きます。Mも涙腺が弱かったから、みんなに伝染したのかも知れません。とりわけ村木さんの言った友達に弱かったようです。性と官能と邪悪な意志に強かったMにとって、不思議なことの一つです。
お陰でMの表情も見えました。穏やかな顔です。その端正な顔が、時には怒り、時には泣き、時には悲しみに曇ります。一心に官能を追い求める表情は浮かび上がってきません。時として性の喜びに震える横顔がうかがえただけです。鉱山の町はMに、自立して生きる方向を指し示してくれたようです。

「よく分かりました。村木さんのおっしゃるとおり、Mを色眼鏡で見ていたかも知れません。その方が分かりやすいので、楽をしていたようです。今日は本当にありがとうございました」
僕は素直に頭を下げて村木さんに感謝しました。
「いや、俺の方がMの史跡巡りを楽しんでいたようだ。最後に元山神社に付き合ってくれよ。あの当時から廃社だったから、今では俺は、M神社と呼んでいるんだ。一緒に行こう」
村木さんは、狭い山道で強引にUターンしました。くねくねと曲がる坂道を無造作に運転して元山神社に向かいます。無人の元山沢には先行車も対向車もありません。植林の進む山並みが雨に煙っているだけです。

元山鉱の購買所の廃墟の前で、僕たちは車を降りました。神社に続く長い石段を、一つの傘に入って上っていきます。僕の女持ちの白い傘は小さくて、二人の肩の半分を冷たい雨が濡らしています。擦り寄せた肩から村木さんの温もりが伝わってきます。僕の温もりも村木さんに伝わっていると思うと、何となく安心した気分になります。この肌の温もりを追い求めていくと、官能に繋がるのでしょうか。ちょっと、違う気がします。やはり、心に開いた大きな空洞を埋めるために官能はあるのでしょう。僕にも空洞はあるのですが、まだ埋める動機が訪れません。そして、隣を歩く村木さんは、空洞を埋めることを放棄してしまったようです。それで、悲しさに耐えられるのでしょうか。僕には疑問です。僕は耐えられそうもありません。人の暮らしはいつも、悲しさでいっぱいなのです。

まだまだ続く「Mの物語」をたどる旅路を思いやると、気が重くなります。僕が知っているMが恋しくなってしまいました。
目を上げると、暗い空の中に黒い鳥居が溶け込んでいました。金属を鋳込んだ鳥居は、煙害に痛め付けられた半世紀と、風雪に耐えた半世紀の重みで、今にも倒壊してしまいそうに見えます。
「この鳥居をくぐって、裸御輿が境内に入場したんだ」
村木さんのつぶやきにうなずいて、僕は荒廃しきった境内に足を踏み入れました。
裸御輿とはよく言ったものです。二十五年前のこの神社で、手製の御輿を担いだ村木さん、緑化屋さん、陶芸屋の三人の大人も、御輿を先導した修太、祐子、光男の子供たちも素っ裸でした。そして、御輿の上にはこれも素っ裸のMが後ろ手に縛られ、足を左右に大きく開いて直立していたのです。おまけにMは無毛です。黒々とした長い髪も、股間に密生していた陰毛も、産廃屋の妹のカンナに剃り上げられてしまったのです。そのカンナと産廃屋の死体を焼き尽くした登窯で製作された、二枚の大皿が裸御輿の御神体なのです。
Mの裸身が二つの大皿を踏み締めています。足裏を通してMは、どんな悲しみを耐えていたのでしょうか。今の僕には、想像することさえできません。

「裸御輿を練り歩いている最中に、先棒を担いでいた俺がつまずいたんだ。御輿がかしいだとたんに、Mの股間から径血が流れ落ちた。どろっとした血が元山沢の大地に染みついた瞬間、自閉症の祐子が声を上げた。私はMが好き、M、バンザイと叫んだんだ。俺は感動したね。幼い心に数々の傷を持った祐子が心を開いた。それも、同じように傷ついたMの勇気に共鳴したんだ。奇跡だった。俺は奇跡に立ち会っていると思った。俺たち全員が叫んだ。M、バンザイ、バンザイ、バンバンザイってね。それで終わりだった。その後俺は、Mに会っていない」
問わず語りに話す、村木さんの肩の震えが伝わってきました。村木さんは、Mの勇気に祐子が共鳴したと宣言しました。自閉症だった祐子が、Mバンザイと叫んだのです。その感情のボルテージの高さは、推し量ることができないほどだったに相違ありません。まさに、奇跡と呼べるものでしょう。

祐子は、鉱山の町を去った三年後に、次の物語のヒロインとなります。Mの勇気に激情した幼い祐子は十四歳の少女に成長し、市の繁華街を舞台にして光り輝くのです。でも、僕は現在の祐子を知っています。祐子はMに見捨てられたと思い込み、生ける屍のように無為な日々を送っているのです。

なぜ祐子は、Mの歩んだ道を進めなかったのでしょう。
僕は急に、祐子が気掛かりになってきました。Mに従い、Mのことを心配して暮らしてきたと思っていた口うるさい祐子が、Mを捜し出す鍵を握っているような気がしました。これまで、余りにも身近にいて気付かなかったのですが、祐子はMが生きてきた道に一歩を踏み出し、その道を断念した過去を持っているのです。突然、いなくなってしまったMと、表裏一体のような気がしました。

何よりも祐子に、思いの丈を語らせることが必要です。けれど、僕を子供扱いし、M同様に心配してくれている祐子に、どう問いただしたらよいのか、機会さえ見いだせそうにありません。でも、幸い、この鉱山の町には、ヒロインになった祐子とMを知っている祖母のナースがいます。
これまで会ったこともない肉親と会うのは気が重いのですが、これも僕の旅路の試練でしょう。祐子と対決するチャンスをつくるためにも、ナースの見た祐子とMの姿を検証する必要があります。


僕は、ナースを訪ねる決意を固めました。
傘を持つ手を上げて村木さんの横顔を見つめます。村木さんも僕を見ました。
「村木さん、申し訳ないですが、帰りに町立病院に寄ってください。せっかく来たのですから、祖母のナースに会ってから帰ります」
突然の頼みに、村木さんは右手で僕の肩を抱いて応えました。妙な力強さが、村木さんの勘違いを伝えてきましたが、もう取り返しはつきません。

「いいとも。やっと決心したか。ぜひ、会っていきなさい。Mが知ったら、きっと喜ぶ。進太の身の振り方は決まっていたんだ。遅くなったらナースの家でも、俺の家でも泊まっていけばいいさ。さっそく行こう、ずぶぬれになってしまうよ」
泊まっていくのはともかく、この分ならナースとの対面に村木さんも立ち会ってくれそうです。僕は大歓迎です。早くも、次の旅が始まりそうです。


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