2.ピアニストと呼ばれた少年

築三百年の屋敷の事件のあった翌年。市で夕刊紙の営業をしていたMは、広告を取るためにピアノ教室を訪れ、レッスン室で自習していた少年に会いました。その少年を、Mは「ピアニスト」と呼んだのです。
Mは二十七歳。ピアニストは十八歳で高校三年生でした。

ピアニストの弾くショパンを賞賛したMは、急に歯痛を訴えます。激しい痛みに苦しむMを案じたピアニストは練習をやめ、山地で歯科医院を開業している父親の診療所にMを案内します。
歯科医と波長の合ったMは、その日の内に情愛を交わし合いました。一目で大人のMの魅力に捕らわれてしまっていたピアニストは、父とMの関係に疑心暗鬼になります。しかしMは、悪びれることなく、歯科医との仲をピアニストに告白しました。未熟な性を容赦なく挑発したのです。

性の誘惑に翻弄されたピアニストは、Mと歯科医が繰り広げる官能の世界に誘い込まれてしまいます。歯科医の妻が市へ外出する日を見計らって、歯科医院の敷地にある蔵屋敷で痴態を演じていた三人は、突然帰ってきた妻に現場を押さえられます。怒りに燃えてMを折檻した妻も、異常な官能の誘惑に負けてしまいます。Mは、性の奴隷として歯科医夫妻に奉仕することになり、この日から二か月間を、蔵屋敷で暮らしました。

ピアニストは音楽大学の受験を断念し、性愛にまみれた家族と、Mへの愛に苦悩します。都会の歯科大進学を決意したピアニストは、Mに求愛し、都会への同行を訴えました。Mはあっけなくピアニストの願いを拒絶し、蔵屋敷に残ることを選択します。しかし、ピアニストが都会へ出発する前夜、Mはピアニストの部屋を訪れます。明日、ドライブに出掛ける日本海で、性に爛れた暮らしを精算しようとする歯科医夫妻に殺されると告げたのです。
Mの言葉を信じかねていたピアニストも、両親からMを守ることを決意して、車の前に立ちはだかります。後部座席には、素っ裸で鎖に繋がれたMがいました。ピアニストはMの横に座り、ドライブに同行します。

行き着いた果ては、因縁の日本海の崖上です。歯科医とその妻が車から降りた隙を突き、Mはピアニストを泣き落として拘束を解かせます。一人で逃げ出したMは、親子三人の目をくらまして、乗ってきたベンツを奪います。
早春のまぶしい日射しを浴びた素っ裸のMが、ピアニストに別れを告げます。

「情けないショパンをありがとう。絶対忘れないからね」
この言葉のとおり、Mとピアニストのねじ曲がった関係が続いていきます。
歯科大に入学したピアニストは医科に転学し、Mへの思いを断ち切るように社会改造の夢を抱くのです。そして、次々にMの物語が展開していくことになります。


残念ながら、僕はピアニストに会ったことがありません。
お父さんの歯医者さんとは、彼が亡くなるまでの七年間、山地で家族のように暮らしました。無欲を絵に描いたような好々爺でした。僕とMは本当の家族のように歯医者さんと接していました。もっとも、Mはピアニストと結婚したのですから、義父にあたる歯医者さんはMの家族に他ありません。しかし、Mとピアニストが一緒に暮らした時間は、結婚するはるか前の、出会いの瞬間だけだったのです。やがて義父になる歯医者さんと、その妻を含めた四人が一緒に暮らしたのは、わずか二か月余りのことです。

今年五十四歳になるはずのMにとって、二か月という時間は、瞬間と呼ぶべきものでしょう。
「Mの物語」を聞かされた僕の目には、ピアニストはその後、Mとの出会いの時間に、短い生涯を束縛されてしまったように見えます。このときを含め、ピアニストは三度、Mに求愛しました。最後の求愛は三十三歳の時です。青年医師のピアニストは死刑囚となって、果たせぬ愛を請いました。Mは、このときになって初めて、ピアニストの愛を受け入れ、結婚したのです。

獄中結婚という、悲痛な言葉が僕の脳裏を去来します。どのような希望が二人の間にあったか、想像することもできないほど哀切です。そして、ピアニストが獄中で自殺した後、歯医者さんの妻も事故で死亡しました。

それから三年が経過した夏、小学校一年生だった僕は母に見捨てられ、非行少年として教護院に収容されました。行き場のなくなった僕を、ピアニストの遺産を相続したMが引き取り、養子にしてくれたのです。
それまで市で独り暮らしをしていたMは、僕のために、蔵屋敷に住むことを決意します。義父の歯医者さんと三人で、山地で一緒に暮らすことになりました。今から八年前のことで、Mは四十六歳でした。
二年前には歯医者さんが死に、Mも家出して半年余りになります。
今や、滅びの家と呼びたいような蔵屋敷には、僕一人が取り残されてしまいました。この家には、Mを含めたピアニスト一家の愛憎と官能が漂っているような気がします。築三百年の屋敷の物語とは別に、もう一つの物語の始まりが、Mとピアニストの出会いにあったような気がしてならないのです。

僕は、歯医者さんの親戚の文学少年に扮して、ピアニストのピアノ教師を訪問します。家族小説の取材を装って、Mとピアニストの出会いの場面を検証してみるつもりです。


市でピアノ教室を主宰していた三井一子さんは都会の出身でした。
牧師のご主人に先立たれてからも、しばらく市に留まっていましたが、十年ほど前に都会に帰りました。現在は都下の専門学校でピアノを教えるかたわら、音楽大学進学を目指す受験生を相手に、自宅のマンションで個人教授をしています。ピアニストを教えていたころ四十歳でしたから、もう七十歳近くなっているはずです。

三井先生は、満面に笑みを浮かべて僕を招き入れてくれました。
通された部屋は十五畳ほどもある広いレッスン室です。フルコンサートのグランド・ピアノが置いてあるため、さしもの広い部屋が手狭に感じられます。先生と僕は、窓際に置かれた白い布張りの椅子に向かい合って座りました。テーブルにおいたハーブティーのカップから、ふくよかな香りが漂ってきます。窓の外は走り梅雨の雨脚で煙っていました。

「遠くからよく来てくださいましたね。市から来た方とお会いするのはしばらくぶりです。本当に懐かしいわ」
歌うような声で先生が言います。少しかん高いけれど、若やいだ声です。とても七十歳になるとは思えません。肌も艶やかで、アイボリーのシルクニットの部屋着がとてもよく似合っています。
「電話でお願いしたとおり、先生の教室の生徒だったころのピアニストのことを知りたいのです。ずいぶん昔の話で申し訳ありませんが、覚えていらっしゃいますか」
僕の依頼を待っていたように、先生が身を乗り出します。
「そう、ピアニストよ。忘れるもんですか。あの子は本当の天才になれた子よ。ピアノを弾く姿を見た人は皆、あの子をピアニストと呼んだわ。アシュケナージはともかく、エッシェンバッハくらいなら、なれたはずよ。ピアノを続けていればね。それは素直で、透明な音が出せたの。お父さんに反対されたそうだけど、お陰で医者になれたのだから、文句は言えないわね」
情熱的に話し始めた先生の言葉は、歯切れ悪く終わってしまいました。期待をかけた弟子の挫折を悔やんだのでしょうか。それとも、不肖の弟子を改めて叱責したのでしょうか。どちらにしろ、若かったころの記憶は、まだ鮮明のようです。
僕は素直に、先生の見解を確かめることにしました。

「先生は今、本当の天才になれた子だとおっしゃいましたが、おもしろい表現ですね。特に意味があるのでしょうか」
言葉尻を捕らえるように問い掛けると、先生の上品な顔に苦笑が浮かびました。膝に置いた両手の長い指先を意味もなく絡ませています。上目遣いに、鋭く僕の目を見ました。
「あなたは礼儀正しいだけでなく、鋭いことも言うのね。小説家志望と言うから、きっと、頭の回転がいいのでしょう。あのころのピアニストとよく似ていますよ。そう、確かに私の言ったことには社交辞令があります。天才に本当も嘘もない。いくら努力しても、なれるものでもないわ。ピアニストには、まだ向上の余地が残されていたと言いたかったのよ。もう、音楽をやめて医者になったのだから、本当のことを言っても怒らないでしょう」
「演奏家には、なれなかったということですか」
「そうでもないわ。上手に弾くだけの演奏者もいますからね。でも、天才とはちょっと違う。天才というのは、生まれつき表現する何物かを持っているということなの。表現の手段がピアノであっても、絵画であっても、文学や建築であってもいいのよ。大切なのは、表現する何物かを持っているという特殊な能力。もちろん能力には大小があるわ。能力がない人もいるのだから、生まれつきの差別があるの。私にも、ほんの少しの能力がある。でも、豊かな能力を持った人を羨んでも仕方ないわ。後は努力でカバーするしかないのよ。人の能力は絶対に平等ではない。私の夫は牧師だったから、だれとでも平等に接したわ。平等という言葉は、そんな風に使うものなの」

興奮気味に、先生は自説を語り始めました。けれど、ピントが少し外れてきてしまいました。このままでは、終日、芸術論が展開されてしまいそうです。話をピアニストに戻さなくてはなりません。
「つまり、ピアニストは上手にピアノが弾けるようになる可能性があったけれど、しょせんそれだけのものだということですか」
「あまりにも身も蓋もない言い方だけれど、結論を言えばそういうことよ。問題は、ピアニストが自らの喜怒哀楽を、ピアノで表現したいと思ったことなの。でも、喜怒哀楽は表現のベースとなる暗黒とは違うのよ。さっきの話に戻るようだけれど、これは大事なことなの。能力といったり、暗黒といったりしているけれど、それは表現の動機のようなもので、能力がある人には分かるの。そして、能力がない人でも、喜怒哀楽で感動することはできる。ピアニストは、生まれつき持っていないものを、喜怒哀楽に置き換えて理解したのね。普通の人の発想でしょう。医者になってくれて、本当によかった。そうそう、確か、ピアニストが最後の発表会で弾いた曲を録音したカセットがあったはずよ。口で説明するより音楽を聴いた方が早いわ」

一人でうなずきながら立ち上がった先生が、壁に造り付けた書棚の奥から黒いカセットテープを取り出してきました。指先で埃を払い、ラベルを読みます。
「これは、午後の部の始めね。ちょうどピアニストのショパンから入っているわ。さあ、聴いてみましょう」
先生は、棚の中央に置いてあるラジカセに無造作にテープをセットしました。音楽家の持ち物とは思えない、東南アジア製のちっぽけな機械です。思わず苦笑すると、先生がスイッチを入れました。とたんにスケルツォ第二番変ロ短調の冒頭の音が耳に飛び込んできました。思った以上に録音がよく、会場の雑音も混じりますが、曲が生き生きと聴き取れます。

透き通った美しい音色でした。健康的で癖がない、弾く人の人柄をしのばせるような調べです。ピアニストの穏やかな心根が胸の底まで染み込んできました。しかし、少しもスリリングではありません。
「心が落ち着く、きれいな調べだけれど、それだけでしょう。けして癒されるわけではないわ」
先生が僕の感想を代弁して、批評しました。おまけに曲の途中でテープを止めてしまいます。
「最後まで聴いても同じなのよ。素晴らしく繊細で、努力の後も分かるけど、聴いていてつらくなるの。人を表現に駆り立てる魔性と縁がなかったのね。ピアノと同じように生真面目で純真な子だったから、かわいそうよ。それでいて傷つきやすいんだもの、放っておけなくなるわ。ずいぶん悩んでいた様子だったけれど、頭脳を生かして医者になれてよかったと思う。あなたもピアニストくらいの年齢なんだから、気を付けなくちゃだめよ」
教育者が本業になってしまった先生が、本領を発揮しました。当時のピアニストは僕より三歳も年上です。けれど、初めて聴いたピアニストのピアノは、僕が羨ましくなるほど牧歌的でおおらかな調べでした。たとえピアニストが悩みきっていたとしても、発せられたピアノの音は、聴く者の心を温かく抱き留めてくれるのでしょう。

心の傷が癒えていなかったMは、その音色に惹かれたに相違ありません。当然ピアニストにとって、Mは初めての女性です。僕と比べ、のどかとさえ思える性の出会いに嫉妬を感じました。しかし、ピアニストが奏でる純真な調べにも関わらず、熱い官能の炎が蔵屋敷を焼き尽くしたのです。少年ピアニストの、さわやかなイメージを抱いて帰るわけにはいきません。
次は、性に戸惑うピアニストを引きずり出す番です。
席に戻った先生の目をじっと見つめました。先生も訝しそうに見つめ返します。

「先生は、ピアニストと仲のよかった新聞社の女性を覚えてますか。Mという名で、ピアノ教室の広告を取りに来たはずです」
問い掛けが終わる前に、先生が露骨に眉をひそめました。やはり先生は正直です。嫌な記憶でも、忘れた振りができませんでした。
「覚えているわ。図々しい広告取りの女でしょう。いくら断っても、しつこく訪ねて来た。最後には、断ってばかりいると地位と名誉に傷が付くと、脅しまがいのことを言ったのよ。たかが五千円の広告よ。根負けして了承したら図に乗って、発表会のプログラムの製作まで請け負っていったわ。Mはハイエナのような女よ。けれど、ピアニストと仲がよかったなんて、初耳だわ」
上品な振る舞いが一転し、怒りにまかせて過激な言葉を口にした先生は、かろうじて弟子のピアニストのことでは白を切りました。けれど、頬が赤く染まっています。どう見ても怒りの色ではありません。思い出した事実が恥ずかしくて仕方ないのでしょう。待っていたとばかりに、僕は切り込みます。

「そのハイエナのような女とピアニストが、先生のレッスン室でデートをしていたという噂を聞きました」
聞いている先生の顔が青くなり、続いて真っ赤に染まりました。当時の噂を口にする僕を疑う気持ちなど、すっかり無くしています。まるで、二十七年前にタイムスリップしてしまったみたいです。
「あれはデートじゃないわ。レイプよ。かわいそうに、ピアニストはMという三十女に犯されたのよ。私は一部始終を見ていたのよ」
叫ぶように言って、先生は口をつぐみました。小さな肩が震えています。二十七歳だったMも三十女にされてしまいました。でも、間違いを正す気はありません。最後まで話させるのが先決です。

「先生がご覧になったことを話してください。どうぞ、ありのままを聞かせてください」
僕の言葉に先生が小さくうなずきました。幾分冷静さを取り戻したようですが、妙に高ぶった声で先を続けます。
「あれは発表会を控えた冬のことだわ。ピアニストがレッスン室でスケルツォを練習していたの。彼の家にはヴェーゼンドルファーのアップライトがあったけど、フルコンで弾きたいと言って学校の帰りによく来ていたのよ。私は奥の事務室で確定申告の書類を作っていた。テンポが狂ってきたのでおかしいなと思っていたら、大きく音を外したの。それっきり反復練習もしないので、のぞき窓の所まで行ってレッスン室をのぞいたのよ。びっくりしたわ。開いた口がふさがらないというのは、こういうことかと思った。見たくないのに一部始終が見えてしまうの。恐ろしかったわ」
ついさっき見た情景を思い出したように、先生は口をつぐんで眉をひそめました。目撃した事態を、心底怖れているように見えます。ここで黙り込まれてしまっては元の木阿弥です。
「ピアニストがレイプされたのですね」
励ますように問い掛けると、先生が小さく溜息をつきました。
「そう、ピアノの前にピアニストが立っていたわ。すぐ前にMがひざまづいているのよ。私が声を掛けようとしたとき、Mがピアニストのズボンを踵まで下ろしたの。かわいそうに、ピアニストはスッポンポンで震えていたわ。でも、ペニスは大きく勃起していた。Mは両手でペニスを支え、口に含んだわ。三回ほどペニスをなぶられただけで、ピアニストは泣きそうな顔になった。ペニスを放したMがスカートを捲り上げたわ。驚いたことに陰毛が密生した股間が現れたの。そのままピアニストを押し倒して、上からのし掛かっていったわ。Mが腰を使う間もなくピアニストは射精してしまった。涙をぼろぼろ流して泣いていたわ。Mはひどい女だ。純真なピアニストを無理矢理犯したのよ。ショーツも穿かないでいたくらいだから計画的よ。確信犯だわ。私は絶対Mを許さない」

話し終わった先生は、目を真っ赤にして肩を震わせています。ピアニストに抱いていた感情が目に見えるようです。けれど、先生が目撃した事実は、Mに聞いた話とずいぶん違っていました。
Mは素晴らしいショパンに感動し、思わずピアニストにキスしてしまったと、出会いの瑞々しさを語ったのです。しかし、どちらにしろ三十年近く昔のことです。今は、先生の心に焼き付いている場面を尊重し、先生の目に映った往時の印象を聞き出すことが肝心です。
僕は話を合わせ、先生の心証へ踏み込んで行くことにしました。

「先生のおっしゃることは分かりますが、僕には、ピアニストも無防備すぎたように思えます」
努めて冷静な声で、感想を口にしました。先生の肩が怒りに震えます。
「何を言うの。無防備なくらい無垢なところが、ピアニストのいいところじゃない。人をほっとさせるものがあるから、そこにMがつけ込んだのよ。悪人はMで、ピアニストは被害者だわ」
鋭い声で断定しました。べそをかいたピアニストを背後に隠しているように見えます。僕は経験したことがないのですが、母性愛という言葉が頭に浮かびました。また、これは経験があるのですが、虐めという言葉も浮かんできました。とにかく、ピアニストの人格の中には、女の攻撃を許してしまう部分があるようです。それを弱さと呼ぶのか、優しさと呼ぶのかは分かりません。先生の意見を聞いてみましょう。
「先生はピアニストを、男としてどう見ていたのでしょう」

問い掛けたとたんに、先生が眉を吊り上げました。
「失礼ね。ピアニストは私の弟子よ。男として見たことなんかないわ」
「男として、魅力がなかったということですね」
突き放した僕の口調が先生のガードを破ったようです。小さく息を吸って僕の目を見ました。
「そういう意味じゃないわ。ピアニストは頼りないくらい純真だったけれど、けして弱々しくなかった。いつも胸襟を開いてくれていたのよ。飛び込んでいけば、しっかり抱き留めてくれる。それが女にとって最大の魅力よ。ピアニストは魅力的だったわ」
反論する声が妙に艶めいて聞こえました。Mを嫌悪する理由も分かります。きっと先生は、最大の魅力に向かって飛び込んでいく勇気が欠けていたのです。

ことのついでに、先生という女性が見た歯医者さんのことも尋ねてみたくなりました。
「よく分かりました。確かに、ピアニストは犯されたようです。きっと魅力的すぎたのかも知れませんね。お父さんの歯医者さんとは似ていないのですか」
急に転換した問いに、先生は当たり前のようにうなずきました。ほっとした気持ちが伝わってきます。
「ええ、歯医者さんは教室の父母会にも積極的でした。無欲で率直な、頼もしい人です。ピアニストとよく似ているけれど、正反対なところもありましたね。さっき言った魅力にたとえれば、歯医者さんは積極的に押し包んでくれるタイプね。抱き留めてくれるピアニストと、押し包んでくれる歯医者さん。魅力的な親子だわ。今になって思い出しても、羨ましくなります」
語尾がしんみりと聞こえました。二十七年もの時間を感じさせないリアルな答えに、僕はつい感動してしまいました。

蔵屋敷に引き寄せられたMは、三井先生が指摘した二つの魅力に挟まれ、ぬるい温泉に浸かるようにして、自らの傷を癒したのでしょう。進路の岐路に立っていたピアニストが求愛を拒絶されてしまったことも、タイミングが悪かっただけのような気がしました。
Mはすでに、自らの責任と人格で、大きく広がった世界と対峙していく予兆を感じ取っていたのでしょう。ピアニストの純粋な愛に抱き留められて過ごす喜びを、自ら拒絶したに相違ありません。将来に備える心持ちの差が、経験の質量の差によって決まってしまったのです。ささいな違いかも知れませんが、運命的なものを感じさせます。二人の行く道は、完全に分かれてしまったのです。
僕の目から涙が溢れました。

「あなたが泣かなくていいのよ。久しぶりにピアニストを思い出してうれしかったわ。ずっと便りがないけれど、もう結婚して、子供がいるのでしょうね。近況が知りたいわ。今度は、あなたが話してくれる番よ」
先生が僕の目を睨み付けるようにして催促しました。不覚の涙につけ込まれてしまったようです。
慌てて目を拭って立ち上がりました。
三井先生は、死刑囚として獄中で自殺したピアニストの末路を知らなかったのです。音楽に明け暮れて過ごす充実した日々が、先生を世俗から遠ざけていたのでしょう。七十歳近くなる生涯のすべてを、音楽というひとすじの道に集中して生きた態度がまぶしく見えます。「Mの物語」の世界に比べ、羨ましくもありました。けれど、いまさら先生に、過酷な現実と対面してもらう必要はありません。僕は恐縮した風を装って身を縮めました。

「すみません。貴重なお話に夢中になって、次の約束に遅れてしまいそうです。必ずまたお邪魔しますから、今日は許してください」
緊張した声で詫びを言って、最敬礼しました。ゆっくり顔を上げると、立ち上がった先生が微笑んでいます。年相応の、余裕に溢れた表情が戻っていました。
「気にしなくていいのよ。私は、若い人のお役に立てれば、それで十分。毎日、そうして暮らしているの。私の見たところ、あなたはピアニストより筋がよさそうよ。どう、今からでも遅くないわ。私について、ピアノを弾いてみない」
突然の申し出に、僕は返事に窮してしまい、どぎまぎして玄関に向かいました。背中に先生の笑い声が降ってきます。天才が宿る先生の言葉に間違いはありません。僕がピアノを練習すれば、きっと最高のピアニストになれると確信しました。


マンションから駅に続く道を、霧雨に濡れながら歩きました。ことのほか冷たい雨です。でも、僕の心の底には温かいものが残っています。今回の旅には善意が満ちていたようです。華やいだMの気持ちが伝わってきます。ピアニストたちを置き去りにして去ったMが、少しばかり憎らしく感じられました。

次は、鉱山の町を訪ねます。
僕の祖母が住む町です。けれど、まだ会うつもりはありません。当時の祖母は祖父と離婚して都会にいたのです。そして、僕の父の修太は、少年ピアニストと同じように、祖父と二人でMと一緒に暮らしたのです。
つらい旅になる予感がします。


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