1.築三百年の屋敷

「Mの物語」は、微かなヴァイオリンの音色とともに始まりました。二十八年前の夏のことです。
市の繁華街にある広告代理店に勤めていたMは、アパートの窓辺に流れてきたバッハの調べに聞き耳を立てます。
眼下に見える都市公園の葉隠れから聞こえてくる、無伴奏ソナタの音色に魅せられたMは、磁力に引き付けられるように公園に向かいました。でも、公園に演奏者の姿はなく、心地よいバリトンで話す中年男がMの前にあらわれます。男は、精神に障害がある少女の弾くヴァイオリンの素晴らしさを告げて立ち去ってしまいます

会社からタウン紙の編集を命じられたMは、駅前のデパートで行われていた写真展の取材に出掛けます。もちろん初めての取材でした。会場の一隅で、都市公園でヴァイオリンを弾く少女の写真を発見します。素晴らしい写真の作者は、公園でMに少女を愛でたバリトンの男でした。Mは中年カメラマンの作品と声に魅せられてしまいます。

会場に来た客とトラブルを起こしたカメラマンを、Mは愛車のロードスターで山地へ送っていきます。カメラマンの家は、築三百年の屋敷と呼ばれる旧家でした。古色蒼然とした屋敷で写真のモデルを頼まれたMは、その場で快諾します。当然のように、カメラマンはヌードを要求することになります。写真撮影はやがて、暗黙の了解を得て、性の舞台に移行します。二十六歳のMは、カメラマンに導かれて官能への階梯を上っていったのです。
たまらなくセクシーなバリトンがMの心を潤し、性の誘いによって、肉体が解きほぐされていきました。しかし、二か月続いた情愛の果てに、Mは会社を辞め、カメラマンはヴァイオリンを弾く少女を殺してしまいます。

殺人のショックで精神に変調をきたしたカメラマンは、Mに依存し、殺人現場からの逃走を懇願しました。Mはカメラマンの願いを受け入れ、車のトランクに少女の死体を積み込み、二人で日本海へ向かってドライブします。
旅の終わりは、陸地が海に落ち込む崖の上でした。
カメラマンはMの目の前で素っ裸になり、自らの手で裸身を縛り上げます。愉快そうな顔でMを振り返ったカメラマンは「夢のような話をしようか」と言い残し、断崖から海へ身を投げて自殺してしまいます。
取り残されたMは、土地の警察に出頭し、少女の死体を提示しました。
Mは死体遺棄の罪に問われて罰せられますが、刑の執行を猶予されました。そして、それ以前の出来事。どこで生まれ、どのように育ち、どうして市で独り暮らしをしていたのかという二十六年間の来歴を、Mは僕に話しませんでした。
「Mの物語」は突然始まったのです。


僕はやはり、広告代理店の正社員だったMが、なぜ物語の主人公になってしまったかを知りたいと思います。何よりも、若々しいMの姿に触れてみたい。

幸い、Mが勤めていた会社でアルバイトをしていた木村さんと連絡が取れました。木村さんは当時、業態の多様化を目指す会社からタウン誌の編集を命じられたMの、よきアシスタントだったと聞いています。


僕は、Mと中年のカメラマンが少女の亡骸を伴ってたどり着いた、日本海に面した地方都市を訪ねました。偶然この地方が、木村さんの生まれ故郷だったのです。
二日前に電話で得た情報によると、木村さんの実家は、この土地で代々続いた蒲焼き屋でした。家業を嫌って故郷を離れ、市の工学部に進学しましたが、卒業と同時に病弱な父に泣きつかれて帰郷し、嫌々家業を継いだそうです。けれど、現在の木村さんは鰻屋をしていません。フランス料理店のオーナーシェフをしていると言っていました。

ランチタイムが終わる時刻を見計らって、僕は古びた駅舎のベンチから立ち上がりました。
駅員に教えられたとおりにメインストリートの奥に向かいます。静かな、落ち着いたたたずまいの町並みを十分ほど歩いたところに、瀟洒なフランス料理店がありました。小振りな店構えですが、四台分の駐車スペースを設けた白塗りの建物はとても明るい雰囲気です。五つのテーブルの他に、広いカウンターがあります。白いシャツブラウスに黒いエプロンを巻いたウエートレスに案内されて、ウオールナットの重厚なテーブル席に座りました。

しばらく待っていると、プレスのきいた白衣を着た、恰幅のいい男が近寄ってきました。鼻の下に蓄えた髭は、白と黒の品のよいメッシュになっています。訝しそうな目で僕を見下ろしてから、向かいの椅子に腰掛けました。

電話の声は若々しい感じでしたが、目の前の木村さんは立派な中年男です。
僕は、立ち上がって挨拶します。
「お忙しいところ、時間をとってくださって恐縮です。さっそくですが、二十八年前に、市で学生アルバイトをしていたころの話をうかがいたいんです」
ずうずうしく用件を切り出すと、木村さんが鷹揚にうなずきました。

「Mを、覚えていますか」
座ると同時に、Mの記憶の有無を尋ねました。木村さんが目を丸くします。
電話ではMの名を出していません。広告代理店の古いエピソードが聞きたいと、社史編纂の仕事を装ってインタビューを依頼してあったのです。それが、どう見ても高校生にしか見えない子供が、はるか昔の女性の記憶を問いただしたのです。驚かない方がおかしいのかも知れません。しかし、確かな反応があったのです。

僕は慌てて言葉を付け足しました。
「電話で嘘を言って、ごめんなさい。僕は、Mと一緒に暮らしている者です。でも、半年前に、Mは黙って家を出てしまいました。ぜひ、捜し出す手掛かりが欲しいんです。Mを覚えているんですね」
膝を乗り出して、必死に木村さんの目を見つめました。硬かった表情が穏やかになり、口元が緩んでくるのが分かります。懐かしそうな視線を僕の頭越しに投げてから、大きくうなずきました。

「ああ、覚えているよ。ずいぶん昔の話だが、今でも、さっそうとした姿が目に浮かぶ。まぶしかったね」
さわやかな声が返ってきました。別れたばかりの人を思い起こすような、鮮やかな答えに期待が高まります。
「Mは、そんなに美しかったんですか」
思わず詠嘆の声が出てしまいました。陳腐な問いを聞いた木村さんが、はにかんだように下を向きます。冷やかしの言葉と誤解されたようです。僕はどぎまぎして、身を縮めてしまいました。
短い沈黙の後、木村さんが顔を上げ、挑むように僕を見ました。
「つまらないことを聞くなよ。今だって美しいだろう。当時は、俺も若かったから、年上のキャリアウーマンがとてもまぶしく見えたんだ。大きくて、美しい人だったよ。俺も身長は百七十センチメートルあって、この歳では低い方じゃない。でもMは、俺より背が高かったね。踵が五センチはあるハイヒールを履いていたんだ。服はいつも、身体にぴったりしたスーツだった。体格もいいし、プロポーションもいいからよく似合った。おまけに仕事ができたから、俺みたいな若造はMの前ではコケみたいだったよ。よく俺のことを覚えていてくれたと思うね。感動もんだ。一緒に暮らしていたと言うあんたは、Mの子供なのか。そういうことなら、俺は、あんたの親父さんを恨むよ」
一息にまくし立てた木村さんの目が輝いています。熱気の向こうから、自信に溢れた若々しいMの姿が立ち上がってきました。ジーンズとトレーナーを着古していた、近年の印象からは想像できない華やいだイメージです。Mに付きまとっていた、苦しいほどの悲しさも伝わってきません。妙にアンバランスな気持ちがうまく整理できずに、僕の返事は少し遅れました。

「いえ、実子ではありません。養子です。七歳の時に、Mに引き取られたんです。でも、僕の知っているMは、いつも地味な格好をしていて、人目も気にしなかった。どちらかというと、古風な女性に見えました。苦しみも悲しみも、みんな一人で耐えてしまって、人知れず死んでしまうような不安があったんです。いなくなってからも、ずっと心配でたまらなかった。だから、今のお話はすごく新鮮でした。Mを捜し出す希望が湧いてきます」
誠意を込めて答えると、木村さんの口に微笑が浮かびました。

「ふーん、養子かい。それじゃあ、遠慮しながら話すこともないな。それに、あんたは見掛けより大人のようだ。Mも行方不明なだけで、亡くなったわけでもない。もっとも、俺にはMが死ぬなんて考えられないがね。まあ、美人薄命というから、外見から見ればやばいかも知れないが、Mは恐ろしいほど戦闘的だった。不死身の女だ。殺しても、死にはしないよ。なんでも自分の思いどおりにしないと気が済まないんだ。仕事はおろか、私的な付き合いでもそうだった。いつだって一等賞だよ。二等になるくらいなら、始めからしないのがMのポリシーに見えたね。冷酷と言えるほどの仕事ぶりだから、当然敵は多い。だが、能力も容姿もずば抜けていたから、真の敵になる者はいなかった。俺はそんなMが内心得意でならなかったよ。あんな上玉は都会にしかいないと思っていたから、地方大学に進学した俺には誇らしいくらいだった。きっと、腰巾着みたいに、くっついていたんだな。よく、酒を飲ませてもらったよ。Mは酒が強い。どこの酒場に行っても最高に華があったね」
Mと出掛けた酒場の空気を懐かしむように、店の内部を見渡してから、木村さんは口を閉じてうつむきました。二十八年前の自分を貶めているような話しぶりです。Mへの憧れを越えた、嫉妬と欲望のにおいが漂ってきました。

若かったころのMが醸し出していた雰囲気の根元が、ちらっと見えたような気がしました。もっと詳細に知りたいと思い、木村さんの白髪混じりの頭に問い掛けました。
「Mを、好きだったんですか」
直截に尋ねると、即座に木村さんが顔を上げました。微かに頬が赤く染まり、うろたえた目つきになっています。
「もちろん好きだったよ。でも、高嶺の花さ」
さり気ない答えが返ってきました。溢れ出そうになった感情を、これまで生きてきた膨大な時間で圧殺したような掠れ声です。
「Mに、恋人はいなかったんですか」
畳み掛けるように尋ねました。
「そんな者はいないさ」
木村さんが即答しました。でも、どことなく焦りが感じられる態度で目を伏せます。膨れ上がってきた悔いが、口元まで上がってきたような顔をして、唇を歪めました。右手でテーブルのカップを取って、ぬるくなったコーヒーを飲み干しました。口の端から尾を引いて、茶色の液体がテーブルの上に落ちます。
僕は構わず話を続けます。

「でも、木村さんが話すMは、とっても魅力的です。僕が言うのも変ですが、男にもてないはずがない」
「そりゃあ、もてたさ。けれど、言い寄っていく男はいなかった。馬鹿な男は一人もいなかったんだ。だって、Mと釣り合いがとれるはずがない。それを分かっていて、みすみす惨めな思いをしたいという奇特な男はいなかったね。みんな、遠くからMを見上げていたんだ。そう、俺もその一人だよ。それでよかったんだ」
自分に納得させるように断言して、木村さんは黙り込みました。もうMのことは話したくはないといった風情です。僕は用意してきた言葉を投げ付けます。

「カメラマンの恋人がいたと聞いています」
「嘘だ、Mはあいつに騙されたんだ。恋人なんかであるものか」
すかさず怒声が返ってきました。怒りと悔恨が混ざり合った目で僕を睨みます。やはりカメラマンはキーワードでした。怖い顔で僕を睨み付けながら、問わず語りに話し始めました。
「確かに、Mとカメラマンは付き合っていたよ。あの中年男が写真賞をもらった記念の個展に、俺はMと一緒に取材に行ったんだ。カメラマンとも会って話した。見え透いた変態野郎だったね。けれど、Mは騙されてしまった。セクシーなバリトンがすてきだなんて言っていた。詐欺師は声を武器にするんだ。大したことのない写真でも、ネコナデ声で大層な作品に言いくるめる。残念なことに、Mはアーティストを知らなかった。田舎町には芸術家がいなかったんだ。Mが知っていたのは芸術論だけだ。その弱点をやつは突いた。卑怯者だよ。Mは男社会のなかで男と渡り合って仕事をしていた。ライバルはいない。さっき話したように、男たちにも遠慮があった。だから、性に無防備だったんだな。簡単に転んでしまった。今でも、俺は悔しい。あっけないくらいに平然と、あんな男と寝てしまったんだ」

先ほどの怒声が嘘のような、静かな声でした。まるで独り言みたいに聞こえます。Mの姿も驚くほど変わってしまいました。自信溢れた大人の女が消え失せ、女衒に騙された、世間知らずの小娘が出現したみたいです。僕は思わず苦笑してしまいました。
「Mが利口だったか、馬鹿だったのか、分からなくなりますね」
意地悪な感想を聞いた木村さんが眉をしかめ、首を左右に振りました。口を突いた言葉は上擦っています。

「いや、俺は中年男が騙したと言っただけだ。Mに責任はないよ。あんな事件が起こって、結果が出てしまったんだ。もう、取り返しはつかない。俺はかけがえのないものを失い、Mは遠くへ行ってしまった。悔いだけが残った。だから、だれかを悪者にするしかないじゃないか。確かに、俺はMの恋を認めたくないのかも知れない。だが、あいつとの関係が深まっていくに連れて、ぼろぼろになっていったMを見ている俺は、死ぬほどつらかったんだ。Mには、あいつが初めての男だった。それなのに、あの変態野郎は芸術と性をない交ぜにして、Mをたらし込んだ。何がアートだ。俺はMが会社を辞める前に、アパートを訪ねていったことがある。荒みきったMに会った。いや、見たんだ」
断言した木村さんが口をつぐみました。先を話してよいかどうか迷っている様子です。
「僕なりに覚悟を固めて会いに来たんです。言いにくいことでも遠慮せず、ありのままを話してください」
促すと、木村さんが力なくうなずきました。唇を舐める仕草が卑猥に見えます。いよいよMの性が語られるのでしょう。何を聞いても驚かないように、僕は身構えます。

「俺に仕事を押し付けっぱなしで、Mはあいつの屋敷に入り浸りだった。すでに有給休暇もなくなり、解雇されるのは時間の問題だった。それまでにも俺は、何度となく意見をし、嫌味も言ったんだが、Mは聞き入れてくれなかった。あいつとの恋が最高だとうそぶいていたんだ。俺は、Mに怒鳴られるのを覚悟で、職場に復帰するように頼みに行った。無性にMに会いたかったんだ。ドアチャイムを鳴らしても答えないので、無断でアパートのドアを開けた。ちっぽけなワンルームだった。俺は、仰天して息を呑んだ。リビングにいる素っ裸のMが目に飛び込んできたんだ。Mは姿見の前に立っていた。俺に気付いた様子もない。遠くを見る目で、鏡に映る自分の裸身を見つめていた。真っ白な美しい肌に、赤黒い筋が痣のように無数に走っていた。特に尻がひどかった。慌ててドアを閉めたよ。振り返ったMと、一瞬目があったが、これといった表情は浮かんでいなかったね。どこか遠くを見ているような、我を忘れた目をしていた。悲しいほど美しかった。あんなに美しい裸身が、悲しく見えたことが不思議でならなかった。外に出て、青く澄んだ秋空を見上げたら涙がこぼれた。悲しさの理由が分かった気がした。Mは完璧に独りぼっちだったんだ。鏡に映る孤独を見つめるように、自分の裸身に見入っていた。その肉体には官能の余韻と、性の喜びが刻み込まれていたはずなんだ。けれど、それも空しかったのだろう。あんなに誇り高かった女の深奥を、盗み見てしまった気がしたよ。俺は、泣きながら会社に帰った」

話し終えた木村さんの目が、涙目になっていました。僕の目頭も熱くなってきます。でも、遠くにある思い出は甘い味がするものです。たかだか十五年しか生きていない僕がそう思うのですから、木村さんが辛い記憶を美しく飾ったとしても、無理はありません。生々しい事実を見つめてもらうのが一番です。

「素肌に無数にあった傷は、なんなのでしょう」
さり気なく問い掛けると、木村さんの頬が真っ赤に染まりました。しばらく迷った後、話したい欲求に負けたように口を開きました。
「鞭打ちの痕だよ。会社に帰ってから、俺はその事実に思い至った。目に焼き付けてきた裸身を思い浮かべると、手首や胸にも縄の跡が残っていた。Mは毎日のように縄で縛られ、鞭打たれていたに違いないんだ」
恥ずかしい秘密を明かすように、木村さんが言葉を落としました。しかし、見開いた目は異様に血走っています。僕の目にさえ、性の高ぶりが感じられます。情け容赦なく、追い打ちをかけることにしました。
「想像したことに、欲情は感じませんでしたか。勃起はしないんですか」
僕の問い掛けに、木村さんは目を大きく見開いて口を開けてしまいました。黙って答えを待っていると、さもつらそうに僕を見返します。

「参ったなあ。そんなことまで聞くのかい。まるでMが目の前にいるみたいだ。とても養子には見えない。Mの子供に責められているような気分になる」
つぶやくように言って目を伏せました。確かに、Mの子供に話せるような話題ではありません。けれど、Mが木村さんに与えた性の衝撃は、ぜひとも聞き出したい事実の一つです。素顔のMを捜し出す旅に出た僕にとって、避けては通れない関門です。
僕は深々と頭を下げて、依頼の言葉を吐き出しました。

「四半世紀も昔のことで、責められる道理はありません。ぜひ、事実を話してください。個人的な秘密であっても、僕は知りたい。Mを捜し出すための貴重な情報になります。見当はずれの場所を捜さないように、Mのすべてが知りたいのです」
大きな声になっていました。頬がかっと熱くなります。
ゆっくり顔を上げると、木村さんの辟易とした顔が見えました。でも、口許に苦笑が浮かんでいます。
「あんたの言うとおりだ。昔のことで恥ずかしがるほどの歳じゃないな。Mの魅力を裏付ける資料の一つとして、聞いてもらおう。だが、聞いてから後悔しても、責任はとれないぜ」
「いいえ、後悔はしません。聞かせてください」
最後のあがきのように念を押した木村さんに、短く答えました。木村さんが、唇の端を舌で舐めてから口を開きます。

「正直に言ってしまえば、俺は欲情したよ。焦りに似た欲情を抱いて会社のトイレに駆け込み、勃起したペニスを指先でなぶったんだ。つむった目の裏には、素っ裸で鞭打たれるMが見えた。俺の知らないMだ。性の喜びに震えている最高の女だった。堕ちていく覇者を見るのはだれでも楽しい。性の喜びに泣くMは、俺にとって堕ちた覇者だ。俺は暗い喜びと共に射精した。惨めな官能を感じると同時に、悔恨が押し寄せてきた。少し遅れて嫉妬が襲い掛かった。俺は変態じゃないが、Mを素っ裸にして縛り上げ、鞭打つこともできる。それでMが喜び、我を忘れた目をしてくれるなら、きっと俺にもできたはずだ。けれど、それをしたのは俺ではなく、あいつだった。だから俺は、あの中年男に、Mが騙されたと言ったんだ」
木村さんの答えは最初の断定に戻っていました。

完璧な孤独がMを官能に誘ったと言う木村さんは、自分でMを縛り上げ、鞭打つことで、その孤独を共有したかったと打ち明けてくれました。くたびれた中年男の向こう側に、今も熱く燃え上がっている若々しい官能の炎が見えるようです。
なぜMが、木村さんでなく、中年のカメラマンを選んだのかは分かりません。でもいつか、Mが木村さんを訪ねて来る可能性はあります。離れて二十八年経った今でも、全身でMを理解しようとする木村さんの気持ちは、確実にMの悲しさと繋がっているような気がするのです。
僕は感謝の言葉を述べ、失礼を詫びてから木村さんの店を後にしました。


さわやかな風が、少し火照った頬を快く撫でていきます。時刻はまだ午後三時を回ったところです。
ここから二駅先にある警察署を訪ねたくなりました。そこは、精神障害者の少女の死体と一緒に、ロードスターに乗ったMが出頭したところです。

Mは死体遺棄の罪で現行犯逮捕され、留置所に収容されて取り調べを受けました。そのときMを担当した婦人警官が定年になり、交通安全センターで嘱託職員として勤務しているのです。あまり気が進まなかったので、電話で所在を確認しただけなのですが、やはり訪ねることにします。
この事件から十四年後のMは、三年も刑務所に収監されていたのですから、今から婦人警官を敬遠していたのでは、先が思いやられてしまいます。
僕は二両編成の電車に乗って、次の証言を求めて隣町に向かいました。


交通安全センターは、警察署から百メートルほど離れたところにある二階建ての小さな事務所でした。
運転免許証の更新手続きなどをするところですが、四時近い時刻は訪問者もいません。案内を請うと、警察官と似た紺色の制服を着た中年の女性が出てきました。六十歳を過ぎているはずですが、若々しい身ごなしです。僕の偏見でしょうが、どこか見下した、意地悪そうな素振りが気に掛かりました。僕の自己紹介にも応えずに先に立ち、暗い廊下の奥に案内していきます。

扉を開いて招じられた小部屋は、窓のないコンクリートの箱のような部屋でした。黒いビニール張りの応接セットが置いてあるのですが、テレビ・ドラマで見た警察の取調室のような雰囲気です。
山形と書かれた名札を胸に付けた元婦人警官は、正面のソファーに座って無表情に僕の話を聞きました。うなずきもしなければ、聞き返しもしません。ひとしきり話させた後、怖そうな目で僕の目をのぞき込みます。

「進太さんの用件は分かりました。二十八年前に警察署に留置されていた、あなたの養母の当時の様子を調べ、捜索の手掛かりをつかみたいというのね。私は退職しても守秘義務があるし、ずいぶん昔のことよ。覚えていないと言って帰ってもらうのが普通だけれど、あなたは養子だし、行方不明の養母を捜し出したいという気持ちも立派だ。できる限りの協力をします」
山形元婦警は尊大な態度で協力を申し出てきました。僕の方が面食らってしまいます。
「婦警さん、ありがとうございます」
まるで、何か悪いことをやらかした少年のように答えていました。それも元婦警ではなく、現職の婦警に言うようにです。山形婦警は、少年課にも在職したことがあるのかも知れません。当たり前な顔でうなづいて、先を促しました。

「Mは、生まれて初めて一週間留置され、婦警さんのお世話になったと言っていました。婦警さんはMを覚えていますか」
「二十六歳の女性が留置場に入れられたんだから、初めてでなかったらよほどの犯罪者よ。もちろん覚えているわ。Mは私が留置場の担当になった年に入ってきた初めての女性よ。あのころの私は三十歳を過ぎたばかりで若かったし、野心もあった。いずれは捜査課に配属されて、女性刑事になる希望を持っていたのよ。だから、犯罪者を間近に見られる留置場勤務を志願したの。よく覚えているわ。経験を積んだ後から思い返すと、Mは普通の犯罪者と比べて一風変わっていた。私はMを担当したのが最初の仕事だから、どうしてもMを標準にしてその後留置した犯罪者を見てしまったの。その基準を変えるのに、ずいぶん苦労したわ」

山形婦警は意外に多弁でした。普段話し合う相手がいないのかも知れません。容疑者を犯罪者と断定した口振りに、偏狭な性格があらわれています。僕は我慢できずにそのことを指摘しました。
「留置されたときのMは容疑者で、犯罪者とは違います。申し訳ないですが、言葉に気を付けてくださいませんか」
「結果的にMは犯罪者でしょう。有罪になったんだから間違いない。私は刑事を希望したほど、犯罪者には厳しいのよ。その私がMを甘やかすと思う。話が聞きたくなかったら、帰ってもいいのよ」
威圧的に答えた山形婦警が僕を睨み付けました。思わずオシッコをちびりそうになるほどの迫力です。けれど、僕だって負けられません。尻尾を巻いて帰ったら、Mに会わす顔がなくなります。
「いえ、なんでも話してください。Mのどこが変わっていたのですか」
踏みとどまって答えると、山形婦警は舌なめずりをしそうな笑顔を浮かべました。もちろん食べようと狙っている獲物は僕に決まっています。

「留置場に、犯罪者を入れるときはね」
話し始めた山形婦警が、言葉を切って僕を見ました。口許に意地悪そうな笑いが浮かんでいます。僕は仕方なく、肩をすくめて応えました。
「危険物や薬物を房内に持ち込まないように、素っ裸にさせて身体検査をするのよ。Mにも裸になるように命じたわ。Mは恥ずかしがって抵抗した。でも、羨ましいほど美しい裸身を見て、びっくりしたのは私の方だった。身体中に鞭で打たれた痕があった。両足を開かせて肛門を調べると、かわいそうなくらいに腫れて、括約筋が裂けていたわ。白い肌を真っ赤に染めて、Mは消え入りそうなくらい恥ずかしがっていた。私には、そう見えたの。だから、優しく留置場の規則を言い聞かせ、守らないと懲罰することも教えてやったわ。留置場は旅館じゃないからね。徹底して、規則を守らせるわ。故意に規則を破ろうものなら、メンツにかけて懲罰する。あなたの養母も、私が懲罰したのよ。どう、もう聞きたくなくなったでしょう」
山形婦警が、怖い表情で問い掛けてきました。僕は背を正して身を乗り出します。

「いいえ、先を続けてください」
あごを引いて答えました。山形婦警には、ふてぶてしい態度に見えたのかも知れません。射るような視線で睨み付けてきました。ここで恫喝に負けるわけにはいきません。じっと視線を受け止め、沈黙に耐えます。
「あなたも、強情な子ね。どうしても、養母の恥を聞きたいというのね」
あきれた声で山形婦警がつぶやきました。
この勝負は僕が勝ったようです。大きくうなずき返すと、山形婦警が再び話し始めました。
「Mも、あなたと同様、強情な女だったわ。留置した翌朝から、私に反抗を始めた。朝食の時に、三度も味噌汁をこぼしたのよ。もちろん、故意にしたことよ。私も軽んじられたと思って、厳しく罰することにした。汚した服を脱がせて、素っ裸にしてやったわ。後ろ手に手錠をかけ、房の中央で正座しているように命じたの。Mは命じられたとおりにしたわ。全身を赤く染め、屈辱と羞恥に耐えているようにも見えた。でも、どこか変なのよ。妙に高ぶった雰囲気があった。小用を足すときには、大きく両足を開き、私に股間を見せ付けるようにしたのよ。固く目をつむった顔が喜んでいるように見えた。まるで、性の極まりを迎えている雰囲気だったわ。悩ましそうに尻を震わせていたのよ。後になって気が付いたんだけど、Mは変態だったのね。マゾヒストだから、屈辱と苦痛の果ての快楽を求めたのよ。私が、あなたの養母のMを覚えているのは、その狂気のためよ」


恐れ入ったかというように、話し終わった山形婦警は薄い胸を反らしました。しかし、僕は平然と婦警を見つめ返します。
「どうしてMは、マゾヒストになったのでしょう。長い経験を積んだ婦警さんの、現在の見解を聞かせてください」
冷静に問い掛けた声に、婦警はびっくりした顔で応えました。けれど、さすがに犯罪者に厳しく接してきた経験は動じません。諭すような声で説教が始まりました。
「どうしてって、決まっているじゃないの。ひねくれた心で大人に甘えていたのよ。Mは、きっと寂しい環境で育ったのね。だれも相手にしてくれない独りぽっちの幼・少年期を過ごしたはずよ。どうにか大人になって、だれにも負けないような美人に成長した自分を発見した。もう、相手に不自由することはない。特に男はね。でも、人との交わりを経験してこなかったから、男と交流することが怖い。そんなときに、一方的に責め立てられる性を体験したのね。自分は受け身でいるだけで、絶頂に導いてもらえるのだから、怠け者の寂しがり屋には最高のパターンよ。変態のマゾヒストになるには、努力は要らないのよ」
断言した山形婦警が、すっくと立ち上がりました。僕の反論などには耳を貸さないといった素振りです。当然、僕に反論はありません。山形婦警の推論を覆す根拠がないからです。Mが自分の生育史を語らなかった以上、幼少時の心の傷も見えませんし、性向に反映した体験も分かりません。ひとつの説として、ありがたく拝聴することにしました。
その代わり、山形婦警の職歴について質問することにします。

「婦警さん、あなたは捜査員になれたのですか」
僕も立ち上がって、正面から問い掛けました。山形婦警が、真っ直ぐ僕を見つめ返します。
「なれたわけがないでしょう。世の中はそんなに甘くない。進太さんも、早く心の整理をつけて勉強し、いい大学に入ることね」
苦渋の答えと説教を背中で聞いて、僕はコンクリートの部屋を出ました。僕もMと同じように権力に反感を持ってしまうようです。しかし、山形元婦警は自分に忠実な人だと思いました。その一点でMと繋がっているような気がします。


交通安全センターの外には、もう夕暮れが迫っていました。
真っ赤に染まった雲が闇に紛れると、Mが心の底に抱いていた悲しみのような夜が訪れます。「Mの物語」をたどる最初の旅は結構疲れました。でも旅は、まだ始まったばかりです。
来週は都会へ行き、ピアニストのピアノ教師と会うつもりです。僕の戸籍上の父にあたるピアニストと、Mとの出会いの様子が聞けそうで、今から楽しみにしています。


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