11.心を病む人

僕と晋介を乗せたタクシーは、四車線の道路を真っ直ぐ西に向かっていきます。二十分ほど走り続けても、道の両側に見える家並みが途絶えません。もう、郊外に出たのでしょうが、田園風景が広がりそうな気配もありません。右手前方に続いている小高い山並みがゆっくりと近付いてくるだけです。

「ここからは見えないけれど、この道は渡良瀬川に並行して走ってるんだ。もうじき右折して山裾に向かうと病院が見えるよ」
隣りに座った晋介が口を開きました。タクシーに乗ってから初めて口にする言葉です。伊東病院に入院しているというMに思いを馳せていた僕は、ずっと無言でいたことに気付きました。返事を考えながら改めて晋介を見ました。

晋介は僕に背を向けて左手の車窓を見つめています。背中を丸めた姿が、小学生のように小さく見えました。先ほどまでの頼もしい姿が嘘みたいです。
僕は面食らってしまいました。晋介の変化に気付かなかった自分が情けなくなります。気が動転している証拠でした。けれど、晋介の様子は、物思いに耽っていた僕を責めている風には見えません。晋介自身が、自らの壁の中に閉じこもってしまったように見えます。僕に呼び掛けた言葉がSOSの合図のような気がしました。直截に尋ねるのが一番のようです。

「僕が沈んでいるのは仕方がないが、晋介にもナーバスな気持ちを伝染させてしまったのかな」
狭い車内に声が響くと同時に、晋介の背中がピクッと動きました。素早く僕を振り返りました。口許に笑いが浮かんでいますが、へたくそな作り笑いです。見咎めた僕の表情を察して笑いを納めました。
「ごめん。大変なときに気を使ってもらってありがとう。俺のことは気にせずに、進太さんは壇原先生と納得するまで話してよ」
晋介の答えは、僕の耳の外で立ち往生してしまいました。額面どおりに受け取ることはできません。晋介がボデイ・ランゲージで語っていたことを、僕は肉声で聞きたいのです。一人で呑み込んでしまっている言葉がきっとあるはずです。問い返すしかありません。

「いや、謝るのは僕の方だ。僕の神経は、晋介が省略した言葉を補えるほど細やかじゃないんだ。はっきり言ってくれないと分からないよ。僕を病院に案内したくないのかい」
「違うよ、俺が言いたいのは、病院に着くと俺の態度が少し変わるってこと。俺は壇原先生を尊敬しているけれど、苦手でもある。後ろめたさもあるんだよ。だから、これまでのように突っ張っていられないかも知れない。それを知っておいて欲しかったんだ」
早口で晋介が答えました。僕も了解できました。やはり晋介は強がりです。年相応におとなしくなってしまうことの弁解を、事前にしたかったのです。安心して、笑いが込み上げてきましたが、後ろめたさという言葉が気に掛かりました。
「何が後ろめたいのさ。晋介らしくないね」
気安い問い掛けに、晋介の表情が硬くなりました。
「個人的なことさ。進太さんに関係ないよ」
冷たい声が返ってきました。言葉の底に苛立ちが見えます。無神経を指摘されたようで頬が赤くなってしまいました。


伊東病院別院は広葉樹の茂る山の中腹にありました。
二階建ての病棟を地形に応じて広々と展開させた建築は、精神病院の持つ暗いイメージの対局にある、開放的な雰囲気を漂わせています。晋介の父の理事長に代わって現場を指導してきたという、壇原院長の考えが偲ばれます。ガラス張りになった玄関ホールを入ると、正面が受付カウンターになっていました。
急に消極的になってしまった晋介に代わって、僕が来意を伝えました。晋介の電話で事情が通じているらしく、待つほどもなくクリーム色の白衣を着た看護婦がやってきました。
「晋介さんが来るのは久しぶりね。壇原先生が喜ぶわよ」
三十代半ばの看護婦が親しみのこもった声で言いました。
晋介は小さくうなずいて、そっぽを向いてしまいます。照れ性で過敏な性格が、病院での晋介の役回りのようです。幼いころに張られたレッテルを剥がすことができないのでしょう。十四歳の少年にとっては当たり前のことです。でも、晋介には帰る場所があるのです。役回りに甘んじているような、晋介の態度が羨ましくなりました。

「先生は二階の閉鎖病棟でお待ちです。私がご案内します」
看護婦が僕に言って、右手の階段に向かいました。閉鎖病棟という独特の言葉が僕を緊張させます。もうじきMに会えるのです。しかし、階段を一段上がる度に、脅えに似た感情が全身に広がっていきます。精神を病んだMに会うのです。なんと言って呼び掛けたらいいか、必死で考えました。

二階に上がると、狭いホールの先全体が病棟になっていました。入口の大きなガラス扉には錠が下りています。看護婦が腰に吊した鍵で錠を開きます。扉を入った先は小さな体育館ほどもあるフラットが広がっていました。三つの大テーブルと多数の椅子が不規則に置かれています。
南に開いた大きな窓からは、曇り空の下に広がる山林が望めます。リゾートホテルのラウンジのような景観です。思い思いの格好をして、座ったり、ぶらついたりしている十人ほどの患者さえ、宿泊客のように見えます。

北側の壁面にもガラスが張られていました。けれど、ガラス越しに見えるのは風景ではありません。医局と書いたラベルが貼られ、数人の看護婦と医師が立ち働いている姿が見えました。
医局の隣が院長室です。正面の大きな机の前に白衣を着た中年の男が座っています。ガラス越しに晋介に手を振って、笑い掛けてきました。壇原先生です。看護婦が大きくドアを開けて、僕たちを院長室に通しました。

「いらっしゃい、晋介と会うのは久しぶりだね。さあ、ソファーに掛けなさい」
椅子から立ち上がった壇原先生が、満面に笑みを浮かべて僕たちを迎えてくれました。髪に白いものが混じっていますが、逞しい身体つきをして長身です。全体に疲れた雰囲気が感じられます。でも、僕たちを心から歓迎しているのは明らかで、優しそうな目がなごんでいました。僕と晋介は、勧められるままソファーに腰を下ろしました。
看護婦が病棟に面した窓にブラインドを下ろしてから部屋を出ていきます。僕は立ち上がって自己紹介しました。焦りを顔に出さないように注意しながら、病院に来るまでの事情を話します。笑顔で聞いている壇原先生の表情が、道子さんの話になると引き締まりました。真剣な顔で最後まで聞き終わると、目を閉じて腕組みをしました。沈黙が僕を不安にさせます。先生の閉じた目をじっと見つめました。

「進太さんの話はよく分かりました。養母のMさんの事件を、この街に着く早々聞かされれば、気が動転して当然です。大変な思いをしましたね」
目を開いた先生が、腕組みを解いて静かな声で言いました。落ち着いた、理解溢れる言葉が安心感を与えます。安心ついでに、頼み事をしてみます。
「先生、僕を進太と呼んでください。晋介とは、一つしか歳が違いません」
「ああ、構いません、進太と呼びましょう。でも、進太が知りたい事柄は、あなた自身に関することです。晋介が同席しても構わないのかな」
さりげなく言ってくれた注意が身に染みました。医療技術者の誠意を感じました。思わず隣りに座る晋介の横顔を見ました。すぐにも立ち上がり、部屋を立ち去る意志が伝わってきます。僕は反射的に口を開きました。
「はい、一緒にいて欲しいんです。万一僕が動揺したときは、きっと晋介が制御してくれます」
答えを聞いた晋介が、自信を持って座り直す気配がしました。目の前の壇原先生が苦笑しました。

「分かりました。晋介のためには席を外して欲しいのだが、晋介を信頼してくれる進太の気持ちもうれしい。話を進めましょう」
何気ない答えの中に先生の苦渋を見る思いがしました。僕はひやっとして、隣の晋介を盗み見したくなりました。
信頼という言葉を借りて、僕は、個人的な問題を晋介に共有させようとしている。Mが繰り返し言っていた、自立した責任と人格を見失ってしまったようです。心の底に冷え冷えとしたものが広がりました。眉をしかめた壇原先生の顔に、悲しそうなMの表情が重なりました。声にならない悲鳴が喉元まで込み上げてきたとき、先生の声が聞こえてきました。

「進太が、ここへ来た目的は一つです。真っ先にMさんと会ってもらおう。それで、いいですね」
重々しい声でした。もう手遅れです。気持ちの整理が着かないまま、Mを捜す旅の最終局面を迎えるのです。震えそうになる身体を押し止めて、大きくうなずいていました。
壇原先生がインターホンのスイッチを押し、Mを連れてくるように指示しました。僕は固唾を呑んでドアが開かれるのを待ち構えます。様々な思いが去来しましたが、別れたときのMの姿を一心に思い浮かべようと努力しました。ドアがノックされます。
「どうぞ」
明るい声で先生が答えました。
僕は目をつむりたくなる気持ちを押し殺して立ち上がり、大きく開かれた入口を見ました。看護婦の後ろに小さな人影があります。Mと少しも似ていない女性が立っていました。しいて言えば、同年齢と思えただけです。一瞬のうちに緊張の糸が切れてしまいました。崩れるようにソファーに座り込んだ僕に、先生が穏やかな声で尋ねました。

「納得したかね」
すぐに返事ができず、ぼう然としていた僕の心に空しさが込み上げてきました。力なく先生を見ます。
「はい、僕が捜しているMとは別人です」
答えた声が上擦っていました。迷い道に踏み込んでしまったような気がしました。Mの本籍地にMがいて、そのMは別人なのです。頭を抱えたくなります。
「ご苦労様、戻っていいですよ」
先生が、別人のMと看護婦に声を掛けました。ドアを閉めて二人が去っていきます。壇原先生が僕の目を見て口を開きます。憐憫という言葉が僕の脳裏に浮かび上がりました。

「やはり、別人でしたね。でも、あの女性は、ここではMと呼ばれています。火災のショックで記憶を喪失し、失語症になってしまったのです。警察の調べでは、火事の一週間前から寺の境内に住み着いていたホームレスらしい。通報者の道子さんの証言のとおり、Mと呼んで、伊東病院で医療保護をしています。ついでに言っておくと、火災の原因はMの放火だと、道子さんは言っています」
僕を慰めるように、壇原先生が去っていった小柄な女性の立場を説明してくれました。しかし、事件の起きた場所はMの本当の本籍地なのです。どうして別人のMがあらわれてしまったのでしょう。幾分冷静になった僕の脳裏に、衝撃がもたらした様々な疑問が浮かび上がってきました。

「僕たちの市に、Mのことを問い合わせなかったのでしょうか。放火の容疑は重大でしょう。市役所で見た除籍には、結婚したMの新戸籍が記載されていました。Mと僕が暮らしていた蔵屋敷と同じ地番です」
身近な疑問を真っ先に尋ねてみました。
「そう、今となっては問い合わせた方がよかったと思います。でも、道子さんの父が、あの女性をMと認めたのです。警察は容疑者をMさんと確定し、処分保留のまま入院させることに決めました。放火といっても、お化け屋敷と呼ばれた空き家が燃えただけで、被害届も出ていない。証人は道子さんだけです。他に目撃者はいません。正直に言うと、実際にMさんが放火したかどうかも、疑わしいものです」
答えはすぐ返ってきました。
僕の養母である、本物のMは、完璧に無視されていたのです。そして、別人のMを創り上げたのは、目撃者として証言した道子さんに他なりません。その道子さんの証言を、壇原先生は疑っているのです。道子さんを病気だと断言した、晋介の言葉が甦りました。慌てて問い返します。

「先生、晋介は道子さんが病気だと言うのですが、先生の患者なのですか。そうなら、詳しいことをぜひ聴かせてください」
僕の問いにすぐ返事は帰ってきません。再び腕組みをして、しばらく考えていた先生が、ようやく重い口を開きました。
「患者のプライバシーが問題になりますが、今朝方、進太に道子さんが話したという、焼けたお化け屋敷の歴史は真実です。進太は道子さんと面識があるし、二人は戸籍上の親戚にあたります。Mを巡る問題の当事者同士なのだから、知る権利もあることにして、簡単に話すことにしましょう。道子さんの父にあたる、坊主の義寛は私が高校生の時の同級生です。娘の奇矯な言動に手を焼いた義寛に頼まれて道子さんの診療を始めたのですが、残念ながら、道子さんは古い発病の精神病でした。道子さんの無意識は、なんらかの契機で幼児期以前に分裂してしまっています。引き裂かれた無意識は、日常的な意識の領域に強烈な衝撃を与えるのです。絶え間ない緊張に耐えかねて、無意識に連動して分裂しようとする意識の平衡を維持するために、妄想が生まれました」

「待ってください。道子さんの妄想とMの間に、どんな関係があるのですか」
難解な説明についていけず、口を挟んでしまいました。先生が柔和な笑みを浮かべて僕の目を見ました。小さくうなずいてから、ゆっくり、噛み砕くようにして話を続けます。
「Mという存在が妄想なのです。私は、五歳以降のMが生存しているとは思いもしなかった。道子さんが産まれたのは、Mが行方不明になってから二十年も後のことです。当然、Mというのは、道子さんが創り出した妄想に過ぎない。だから、進太の話してくれた現実のMさんのことを聞いて、正直言って、今日は驚きました」

壇原先生は僕が困惑する事実を口にしました。Mと呼ばれる別人がいたことさえショックなのに、妄想のMがいるというのです。何がなんだか分からなくなってしまいます。一瞬、僕が捜しているMも、妄想の産物ではないかと思ってしまいました。

「道子さんは、どんな物語を創り出したのですか」
先を促した声が震えてしまいました。先生がまた優しい目で僕を見ます。
「自分は、行方不明になってしまったMの隠し子だという妄想です。道子さんは、その妄想を思春期のころに創り出しました。恐らく祖父から聞いた昔話がヒントになったのでしょう。出自に関係した妄想の症例は、実に多いのです。天皇陛下の隠し子だと訴える患者は、大勢いますよ。この病院にもいます。道子さんの場合は、祖父が心配し尽くした弟夫婦の長女に、強い共感と嫉妬を持ったのでしょう。悪いことに、義寛は妻帯していません。道子さんには母がいない。行方不明のMを母に見なして、実際の母に見捨てられた悲しみと憎悪の妄想を育てていったのです」
僕の背筋を冷たい感情が走り去りました。悲しみはMにぴったりの言葉ですが、憎悪は不似合いです。

「Mに対する道子さんの憎悪が、先ほど会った女性を放火犯にさせたのですか」
聞きたくはありませんでしたが、恐る恐る尋ねてみました。
「そう。ここからは全くの想像で話しますが、あのお化け屋敷に放火したのは道子さんかも知れません。たまたま行き会ったホームレスをMになぞらえ、生まれる前から廃屋として残されていた、Mの象徴としての屋敷を焼き捨てたとも考えられます。Mに生家を焼かせることで、自分を見捨てた母に謝罪させたのでしょう。そして、今日、進太の話でMさんの実在が証明されました。今となっては、道子さんが、本当にMさんの隠し子だった可能性も、なくはありません」
壇原先生が恐ろしい仮説を提出しました。もし事実なら、道子さんの妄想は真実に変わってしまいます。僕は道子さんの義理の弟で、Mに向けられた道子さんの憎悪の正当性も証明されるかも知れないのです。喉元まで焦燥が込み上げてきました。

「僕は事実が知りたい。先生、真偽を確かめる方法はないのでしょうか」
居たたまれなくなった僕は、叫ぶように先生に縋っていました。僕を見つめる先生の目が一瞬、悲しい色に染まりました。でも、壇原先生は医師です。科学者の目に戻ってうなずきました。
「義寛が真実を知っています。義寛に会って事実を確かめるといいでしょう。Mを妄想の産物と確信していた私にも責任がある。義寛には、私から電話をしておきます」
決定が下りました。ここまで来ては断る道理がありません。全身に闘志がみなぎりました。別世界に住むMを捜し出してやりたいと思いました。若いころのMを彷彿とさせた道子さんの振り袖姿が目に浮かびました。異常な言動に振り回された、今朝方の情景が甦ります。しかし、義寛師と会えば、再び道子さんと会わないわけにはいかないような気がしました。

「先生、義寛師に電話する前に、道子さんと話す方法を教えてください。今朝会った印象では、言葉が通じそうにありません」
「ハッハハハハハ」
恐る恐る尋ねた問いに、先生が大笑いしました。
「精神病の患者を、むやみに怖がる必要はありません。道子さんの症状は薬でコントロールできます。きっと、薬を飲むのをサボっていたのでしょう。向精神薬と精神安定剤を規則正しく服用すれば、意識の緊張状態が軽減して、妄想の昂進を抑止できます。道子さんは、もう半年近く外来に来ていません。話が通じなかったのはそのせいですよ。義寛に会ったら、通院させるように言ってください」
自信に溢れた声で答えた先生が、ホッと一息ついて深々と椅子に座りました。落ち着きを取り戻した僕の様子を確認すると、隣りに座った晋介に声を掛けました。

「晋介、やけに神妙にしてるじゃないか。このくらいの話に恐れ入る晋介ではないだろう」
先生の言葉を待っていたように、晋介が飛び付きます。
「当たり前だよ。そんな、訳の分からない話じゃ動じないね。俺は、進太さんと海炭市から帰ってきたばかりなんだ。結構、冒険もしてきた」
晋介の答えを、先生はうれしそうな表情で聞いています。
「ああ、私がプレゼントしたライカで撮った、夕日の写真コンテストね。冒険というと、あちらでも何か、いい写真が撮れたのかな」
「撮れやしないよ。海炭市では、俺、人を殺してしまった」
さりげなく言った晋介の言葉が、僕を打ちのめしました。
人型の炎になって燃え上がる、校長さんの姿が目の前に広がりました。全身から血の引いていく感触がします。
壇原先生が、真っ直ぐ僕の顔を見つめました。僕の青白くこわばった表情を見て、先生は晋介の言った言葉が真実だと認識したはずです。

確かに、ガソリンを被った校長さんに、火の点いたジッポーを投げて焼死させたのは晋介です。たとえ、僕と祐子の危機を救うためだったとしても、晋介が罪障感に責め苛まれていて当然です。それを思いやれなかった僕の想像力が貧困に過ぎたのです。つい先ほど、晋介を個人的な問題に巻き込むことを怖れた自分が、滑稽に見えてしまいました。
全身を硬くして先生の言葉を待ちます。

「そうか、晋介にはいい薬だ。勉強になっただろう」
先生の言葉が落ちました。苦渋に満ちた響きですが、はっきりした声です。
「うん、すごく勉強になったよ。壇原先生、いつもありがとう。また来るね」
元気溢れる大きな声で晋介が答えました。先生の返事も待たないで立ち上がります。僕も立ち上がって晋介と並びました。ドアを開けたところで、二人して振り返りました。
先生は疲れ切った表情で椅子に座っています。かろうじて笑顔を浮かべ、僕たちに手を振りました。
壇原先生が晋介の殺人の告白を受容した背景には、殺人現場に晋介と一緒にいたはずの、僕の人格に対する鋭い観察と分析・評価もあったはずです。先生は一瞬のうちに、事件の偶発性と、事件に遭遇せざるをえなかった晋介と僕の運命を認めたのです。そして、罪を告げた晋介の一切を受容しました。
僕は、壇原先生の持つ、疲れきった雰囲気の意味が分かったような気がしました。罪人の懺悔を聴く、カトリックの司祭そのままなのです。心を病む人と接する医師の仕事は、神の仕事とイコールになってしまうのでしょう。
壇原先生は、人の良心を越えた水準の医療を自らに強いているようです。晋介が病院に来る途中で、先生を苦手と言い、後ろめたいと言った言葉も、初めて得心がいきました。
足取り軽く院長室を出る晋介に続いて、僕も深く頭を下げて、先生に別れを告げました。


「腹が減ったね。進太さん、ファミレスに寄ろうよ」
タクシーが走り初めてしばらく経つと、晋介が甘えるような声を出しました。時刻はとうに正午を回っています。目まぐるしく変わる事態に対応するのが精一杯で、僕は食事のことなど忘れていました。けれど、晋介の声を聞いてお腹が鳴り出しました。聞きつけた晋介が、無邪気な声で笑います。
僕たちは、最初に目に入ったファミリーレストランで遅い昼食を食べることにしました。
ステーキ定食の大盛りを軽く平らげた晋介は、デザートにクレープまで注文しました。僕はスパゲッティ・ミートソースで満腹です。
晋介は、もういつものペースに戻っています。図太さと効率のよさにはついていけません。

「進太さん、本当に寺の坊主に会う気なの」
真顔で問い掛けてきました。口にくわえたショートピースに使い捨てのライターで火を点け、深々と吸い込みます。怪訝な表情をして答えようとしない僕に、白い煙を吹きかけました。黒い長袖のTシャツが大人びて見えます。決まってしまった予定に難癖を付ける晋介が小憎らしくなりました。
「俺、寺の坊主を思い出したよ。小学校の道徳の時間に説教に来たことがあるんだ。変なやつだった。今朝会った道子も変なやつだ。あんなやつらに何回会っても、らちはあかないと思うよ。M捜しはもういいんじゃないの」
答えようとしない僕に追い打ちを掛けてきました。僕もむっとします。

「別に晋介が一緒に来なくてもいいよ。せっかく壇原先生が電話をしてくれるんだから、僕は義寛師に会いに行く。ひょっとすると、あの道子さんは姉になるのかも知れないし」
答えてしまってからぎょっとしました。姉という言葉に、多分に感情がこもってしまったような気がします。すかさず晋介が突いてきました。
「ほら、進太さんまで妄想に取り付かれている。これだからやばいんだよ。素人が病人と対決すると、必ず影響されてしまうんだ。一人でなんか行かせられない。俺も付き合う。さっさと済ませてしまおう」
したり顔で言った晋介が、煙草をもみ消してレシートを手に取りました。
椅子を鳴らして立ち上がります。
取り残された僕は形無しです。でも、これで冷静になれそうです。急いで晋介の後を追いました。


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