12.物語の始まり

僕たちは再び、Mの本籍地の隣りにある寺院にやってきました。大きな山門には浄真寺と書いてあります。広い境内の奥まった位置に建つ、二階建ての庫裏に向かいました。玄関に設置されたインターホンのボタンを押します。

何回押してもチャイムの音が響くだけです。いくら呼び掛けても返事がありません。待ちきれなくなった晋介が引き戸を引くと、簡単に開きました。
「ほらね、寺や教会は入る者を拒んではいけないんだ。さあ、勝手に入らせてもらおう。どこかに坊主がいるはずだよ」
屁理屈を言って靴を脱ぎ捨て、晋介はズカズカと屋内に入っていきます。僕も苦笑して後に続きました。しかし、庫裏は無人でした。

「本堂に行ってみようよ」
晋介が憮然とした表情で言い放ちました。
本堂に続く回廊の扉を開き、大きな足音を立てて、殴り込みに行くみたいに廊下を渡っていきます。晋介の傍若無人な態度に、僕は冷や冷やしてしまいます。

「いたよ、坊主がいた。進太さん、やっぱり本堂だよ」
大声で叫ぶ晋介を追っていくと、薄暗い本堂の巨大な仏壇の前で紫色の僧服を着た僧侶が読経をしています。
「坊さん、伊東病院の壇原先生から電話があったろう。さっそく訪ねてきたよ」
晋介が立ったまま、不作法に声を掛けました。
「黙りなさい。今は昼のお勤めの最中だ。大人しく待っておれ」
低い叱声が天井の高い本堂に響き渡りました。義寛師の声はなかなか迫力があります。
「へん、もったいつけやがって」
さすがの晋介も憎まれ口を吐き捨てただけで、大きく開け放たれた本堂のきざはしに腰を下ろしました。ちゃっかり義寛師に尻を向けています。僕は本堂の隅の畳で神妙に正座して待ちます。
「進太さん、坊主のお経は日が暮れるほど長い。足が痺れてしまうよ」
さもおかしそうに晋介が冷やかしましたが、黙って正座を続けました。忠告どおり、お経は延々と続きます。すっかり足が痺れてしまいました。義寛師に意地悪をされているのかと疑念が芽生えたころになって、ようやくお経が終わりました。

「さて、なんのご用かな」
本堂の隅にかしこまって控えている僕を振り返って、義寛師が鷹揚に尋ねました。右手の畳に寝そべっている晋介が、くすっと笑います。僕は、晋介を無視して義寛師に頭を下げました。
「僕は進太。Mの養子です。お嬢さんの道子さんとMの関係を聞かせてください」
率直に問い掛けました。壇原先生がどの程度話してくれたか分からないので、直截に尋ねるのが一番だと思ったのです。

「関係はない」
ぶっきらぼうな答えが返ってきました。僕たちが歓迎されていないことは明白です。
「いえ、続柄という意味です」
重ねて尋ねました。
「会ったことはないが、Mは私の従妹に当たる。道子はMにとっては従兄の子になるのだろう。だが、Mは半世紀近くも行方不明だ。本寺とは関係がない」
素っ気ない声で答えました。生徒手帳の付録の、親族関係の一覧表を参照しているような内容です。晋介が言っていたように、このままでは、らちがあきません。僧職者への礼を失しますが、はっきり問いただしてみることに決めました。

「三十年も昔のことですが、都会で暮らしていたMが道子さんを産み、育てられなくなって本家の浄真寺に預けたという噂があります。その話が事実なら、道子さんは僕の姉になります」
「愚か者め、仏前で何を言うか。戯けたことをほざくと、仏罰が当たるぞ。道子は私の子だ」
怒声が返ってきました。義寛師が動揺した証拠かも知れませんし、道子さんの妄想を知られたことへの怒りかも知れません。
踏み止まって問い返します。
「義寛師は妻帯しなかったと聞いています。道子さんの母はだれなのです」
無礼な問い掛けに義寛師が絶句しました。口を一文字に結んで睨み付けてきます。冷たい沈黙が本堂に満ちました。僕は、焦って行き過ぎてしまったようです。これといった打開策も思い付きません。面会を打ち切らなくてはならないようです。

「ほら見ろ、糞坊主は答えられまい」
突然、金切り声が響き渡りました。
ぎょっとして声がした方を見ると、仏壇の裏の暗がりから白い影が躍り出てきました。振り袖姿の道子さんが素早く木魚を叩く棒を拾い上げます。そのまま振りかぶって二発、義寛師の禿頭を、当然といった仕草で叩きました。深閑とした本堂に響く乾いた音が、なぜかユーモラスです。
「欺瞞と偽善に満ちた寺は燃してやりたい。でも、Mは寺を焼かずに生家を焼いた。もう私に行き場はない。糞坊主め、今日という今日は是が非でも死ぬ。死んで私も、お祖父さんの所に行くのだ。お前はMとつるんで娘を産ませろ。隠し子の私が生まれ変われる絶好のチャンスだ。さあ、進太。弟ならば、私の死ぬところを目を見開いてきっちり見ろ」
立ちはだかった道子さんが、棒を振りかぶったまま大声で叫びました。大柄な身体から放射される狂ったエネルギーが、僕に向かってきたのです。背筋を寒気が掠めました。道子さんが振りかぶった手を一閃しました。僕の肩先に痛みが走ります。木魚の棒が畳に落ちて転がっていきます。

「ハハハッッッハハハハハ」
長く尾を引いた笑いを発して、道子さんが跳び上がりました。
「死んでやる。死んでやる。死んでやる」
呪文のように唱え続けながら、本堂を練り歩きます。突然、向きを変え、境内の方に向かいました。すっくと立ち上がった義寛師が押しとどめようとしますが、いっこうに聞き入れません。踊るような歩みにつれて着物の裾が乱れました。露になった白いふくらはぎが、またしても僕の視覚を悩ませます。Mの幻影が脳裏に浮かび上がってきました。

「道子、いい加減に目を覚ませ」
境内に下りるきざはしのすぐ手前で、仁王立ちになった義寛師が絶叫しました。道子さんを外に出すまいとする気迫が伝わってきます。さすがに、跳び歩いていた道子さんの足が止まりました。怒らせていた肩が落ち、しょんぼりした足取りで義寛師に近寄っていきます。

聞き分けたような仕草に全員がホッとした瞬間、道子さんは振り袖の裾を翻して、義寛師に向かって突進しました。不意をつかれた義寛師が、道子さんと重なって後ろに倒れていきます。
二人の身体が高さ二メートルのきざはしから、境内に投げ出されました。紫の僧衣と白い振り袖が重なって落下します。真っ逆さまになった義寛師の禿頭が敷石に激突しました。頭蓋が砕ける凄まじい響きと、肉体が着地する鈍い音が耳を打ちます。

よろよろと義寛師の身体の上から起き上がった道子さんが、無惨に砕けた義寛師の頭部を見下ろしました。満面に恐怖の色を浮かべて笑い出します。
「ハハッハハハハハ、糞坊主が死んだ。Mが復讐に来たんだ。次はきっと私の番だ」
憎々しく叫んだ後、ぼう然と見下ろしている僕たちを睨み付けます。全身が激しく震えていました。
「負けだ、私の負けだ。Mに殺される前に自分で死んでやる。進太、歴代の墓所に行って姉の死を見守れ」
厳しい声で命令した道子さんが、墓地の方向に走り出します。野獣のようにエネルギッシュな走りが妄想の昂進を証していました。

「放って置いていいのかい。少しやばそうだよ」
晋介がのんきな声で呼び掛けてきました。僕は事態の陰惨な展開と、真実を知る義寛師の死のショックで口もきけません。かろうじて晋介の声で道子さんの危機を理解しました。人の死はもう懲り懲りです。晋介と一緒に裸足のまま、道子さんの後を追って、歴代の墓所を探しに走り出しました。


古びた墓石が延々と続く、墓地の奥まった位置に浄真寺の墓所がありました。
いかにも日当たりがよさそうな場所で、広さは普通の墓地の十倍もあります。頭部が丸くなった、大小十基の僧職者の墓が整然と並んでいます。右端にある大きな黒御影の墓石の後ろに道子さんがいました。墓所の入口に立つ僕たちから四メートルの距離です。

道子さんは、墓石の後ろに巡らせた石の柵の上に立っていました。端正に着こなしていた白地の振り袖の前が、すっかりはだけてしまっています。剥き出しになった豊かな乳房が怒ったように上を向いています。腰を覆った薄桃色の湯文字が、不思議な艶めかしさをかもし出していました。

1メートルの高みにすっくと立ち上がった姿はまるで、天界から堕ちてきた菩薩のようです。ねじ曲がって頭上に張り出したサルスベリの枝が天蓋に見えます。地面に敷き詰めた細かい玉砂利の上に、朱色の帯や色とりどりの紐が乱れ落ちていました。

「遅いじゃないの。道草はやめてよ」
なぜか、会ったときと同じ言葉で呼び掛けてきました。改めて異様な光景が目に焼き付きます。道子さんがMの分身になって出現したような幻覚が、再び襲ってきました。
「やばいな、首を吊る気だ」
晋介の覚めた声が耳を打ちます。慌てて観察すると、細い首に銀色の組み紐が巻かれていました。紐の先を手にした道子さんは晋介を見向きもせず、真っ直ぐ僕を見据えています。

「進太、姉の死に立ち会えるなんて最高でしょう」
呻くような声で呼び掛けて、両手を高々と上げました。張り出したサルスベリの枝に首から延びた組み紐を慎重に結わえ付けます。まるで、迫り来るMを牽制しているような身動きでした。見えない手で制止されたように、僕たちは動きが取れません。
「参ったな、セット完了だよ。あの紐は細いけど、丈夫だろうね。あの高さから飛び下りれば、頸椎が折れる。最悪だね」
晋介の声が響きました。細い絹糸を無数に合わせて組んだ紐は強靱なはずです。道子さんの体重くらいで切れる道理がありません。僕の首筋を冷気が掠めます。残った勇気を振り絞って一歩を踏み出しました。

「道子さんやめなよ。死なないでくれ」
悲壮な声で訴えました。僕を見下ろした道子さんの口許に妖艶な笑みが浮かびます。
「いくら弟の頼みでも、そればかりはだめね。私はMに殺される前に死ぬ」
「いやだ、僕は道子さんの弟だ。見捨てないでくれ」
反射的に答えていました。言ってしまってから、妄想に同調してしまったことを悔いましたが、もはや手遅れです。道子さんの身体が一回り大きくなったように見えました。
「進太は殊勝なことを言ってくれるね。縁薄かった弟に、私の誠を見せてあげる。しっかり目に焼き付けるといいわ。私は死んでも、進太の中で生きる」
厳かな声が高みから落ちてきました。すでに前がはだけている振り袖を、一気に肩から脱ぎ落としました。薄桃色の湯文字一つで腰を覆った半裸の姿があらわれました。もう完璧に菩薩像です。思わず息を呑んでしまいました。

背後にいる晋介が、大きく舌打ちをしました。
「道子さん、もっと自分を大事にしなよ。俺たちはストリップを見に来たんじゃないぜ。下りてくれば、壇原先生に会わせてやるよ」
冷たい声で呼び掛けました。あまりの展開に、晋介も居たたまれなくなったようです。道子さんが怖い顔で一瞥しました。
「連れの子供は、いつもゴチャゴチャとうるさい。私と進太は姉弟なのよ。弟に誠を見せてどこが悪い」
道子さんが怒声を発し、晋介を無視するように臍の下で結んだ紐を解き去りました。薄桃色の布が地上に落ちます。素っ裸になった股間で漆黒の陰毛が天を突いています。さすがの晋介がたじろいだ気配が伝わってきました。

道子さんが無造作に足を左右に開きました。陰毛の陰りからのぞいた性器が僕たちを笑っています。口許にも薄笑いが浮かんでいました。なんとも凄艶な笑みが僕たちを打ちのめします。迂闊なことにペニスが勃起してきました。頬がカッと熱くなります。首を左右に振って、もう一歩を踏み出しました。道子さんまで二メートルの距離ですが、頭の中が真っ白になって何も目に入りません。

「姉さん、もういいよ。Mに姉さんを殺させはしない。僕が代わりになんでもする。一緒に暮らそう」
思ってもいない言葉がすらっと口を突きました。はっとして意識が鮮明になります。上目遣いに見た道子さんの目は据わっています。裸身を吊り下げた銀色の組み紐が妖しく光りました。重く垂れ下がった雲が薄れ、薄日が射したようです。蒸し暑さが立ちこめてきました。僕の股間を見つめた道子さんが、ゆっくり口を開きます。

「姉の裸を見て勃起するとは、見上げたものだ。死を思いとどまってもいい。なんでもしてくれるというなら、お前の真心をくれ」
僕は耳を疑ってしまいました。思いがけないレトロな言葉です。胸がホッとしました。あまりの微笑ましさに目を細め、大きくうなずき返しました。
「うん、いいよ。姉さんに僕の真心をあげる」
答えると同時に、不安定な裸身が柵の上で回れ右をしました。頑丈な石柵ですが、石の幅は二十センチメートルしかありません。危なくて見ていられずに目をつむってしまいました。
恐る恐る目を開くと、突き出された尻が見えました。大きく開いた尻の割れ目の奥で、愛液に濡れた陰部がうごめいています。

「さあ、進太の真心をくれ」
組み紐を巻いた首をねじ曲げて催促しました。道子さんが欲しがった真心とはセックスのことなのです。でも、こんな状況で応じられるはずがありません。
「だめだよ、今はあげられない」
「嘘つきめ。急がないとMに殺されてしまう。真心がだめなら一千万円くれ。さあ、一千万円出すんだ」
僕の弱々しい答えに、叱責と無心の声が返ってきました。もう無茶苦茶です。何が一千万円の対価なのか考える気にもなれません。狂気が頂点まで達してしまったのでしょう。僕を睨み付けた目が空洞のようです。ねじ曲げた首もそのままに、今にも後ろ向きに飛び降りてしまいそうな恐怖が立ちこめました。

「進太さん、俺たちはだまされた。両足にしがみつけ。紐は、すぐに解ける」
進退窮まった僕の耳に、晋介の声が飛び込みました。反射的に裸身を見上げます。首の後ろで縛った紐は、なんのことはない花結びでした。
思い切って地面を蹴って道子さんに飛び掛かります。同時に、裸身が後ろに倒れました。首に巻いた組み紐が解けます。僕は大きく両手を開き、落ちてきた尻を抱き留めました。道子さんの全体重を支えきれず、あお向けにひっくり返ります。柔らかな肉体の重量を全身で受け止めました。

「ギャー、殺せ、早く殺せ」
嬌声を上げて、道子さんが僕にしがみついてきます。恐ろしい迫力と力に、仰向けに倒れた僕は為す術がありません。僕をMと勘違いしているようですが、道子さんは裸の陰部を僕の腰に擦り付けてきます。姉に犯される恐怖が喉元まで込み上げてきました。
「よせっ。いい加減にしないと、ぶっ叩いてやる」
怒声を発した晋介が走り寄って、道子さんの頬を二回、平手で叩きました。皮膚を打つ音と、けたたましい悲鳴が耳のすぐ側で交錯します。
僕にしがみついた道子さんの両手を、晋介が背中にねじ上げました。ひときわ高い悲鳴が上がります。晋介は素知らぬ顔で地面に落ちていた紐を拾い上げ、道子さんを後ろ手に縛り上げてしまいました。

やっとのことで、僕は立ち上がれました。
玉砂利の上では白い裸身が暴れ回っています。後ろ手に縛られた道子さんが自由になる両足を蹴り上げて晋介に抵抗しているのです。晋介が裸身を蹴り、数本の紐を拾い上げました。荒れ狂う長い足を交互に掴んで胡座を組ませ、足首を縛り上げます。続いて後ろ手に緊縛した裸身を足蹴にして上体を前屈させました。その姿のまま、足首から伸びた紐を後ろ手に縛り付けます。伸びやかだった裸身が、まるで荷造りされたような窮屈な姿で転がってしまいました。

「やっと静かになった。手間を掛ける女だ」
大きく息を吸い込んだ晋介が、満足そうにうそぶきました。足下では素っ裸で胡座縛りにされた道子さんが呻いています。両の乳房が足首に密着するほど裸身が前屈しています。江戸時代の海老責めの拷問を受けているのと同じ姿でした。大きく開いた両膝を震わせて呻き、苦痛に呻吟する裸身が小さく見えました。晋介の暴力の前では、妄想も急速に漸減していくようです。左右に尻を動かして喘ぐ姿が痛ましくなります。

「道子さん、苦しいのかい」
苦痛を案じて声を掛けてみました。
窮屈な格好でうなだれていた道子さんが声に反応し、即座に顔を上げました。僕の視線を正面から受け止めます。真空のようだった道子さんの目に光が甦っていました。
ホッとしたとたんに、僕の心は凍り付いてしまいました。道子さんの目の底で燃えている、官能の炎が見えたのです。減退した妄想が露出させた分裂した無意識の隙間から、官能の炎が揺らめき立っていたのです。道子さんの無防備な意識がかいま見せた性が、僕を震撼させます。股間が熱く燃え上がり、再びペニスが勃起してきました。

「壇原先生に電話してくるよ。ここへ来てもらうことにする。もう、通院じゃ済まない。入院が必要だよ」
晋介が言い捨てて、去っていきます。僕は答えることができません。遠ざかっていく足音が合図のように、道子さんが不自由な身体で仰向けに倒れました。
大きく露出した股間を宙に掲げて尻を振り、妖しく身悶えを始めます。苦痛の呻きが、僕を誘っているように聞こえました。殺風景な墓地の中で、官能の炎がメラメラと燃え立っているようです。Mの幻影がしきりに脳裏を去来しました。
僕は、猛り立ったペニスを、道子さんの股間に突き立てることはできません。しかし、これまでたどってきた「Mの物語」のヒロインであるMなら、きっと、道子さんの求めを受け入れているはずです。Mは道子さんと共に、官能の極まりを追い、悲しさを共有するでしょう。それがMの生き方でした。求めに応じきれない自分が歯がゆくなります。
目を閉じると、微笑んでいるMの顔がまぶたに浮かびました。でも、その顔はけして、慈愛に溢れているようには見えません。今の僕には、どことなく恐ろしい顔でした。狂者の顔のようにも見えます。Mは、心を病む人と一緒に病むことを厭わなかったのでしょう。それどころか、自ら進んで、その場に身を置いたのです。行き着く場所を決めずに、果てのない修羅の道に踏み込んだMが、今、僕に向かって微笑んだのです。
僕の背筋を、恐怖が掠めました。

自らの責任と人格に基づき、自由に生きるということは、終わりのない修羅の道に踏み込んで行くことでした。とうてい、僕にできることではありません。
そう思った瞬間、急にMが遠ざかっていきました。僕を置き去りにして遠ざかっていくのです。
一瞬、悲しさが僕の胸に満ちました。でも、ほんの瞬間です。

目を開くと、悩ましく悶える道子さんの裸身が見えました。Mと同様、申し分のないほど美しい肉体です。僕は道子さんを、Mの隠し子、Mの分身として認めようと思います。
この三か月の間、様々な事実に立ち向かい、真剣に見つめてきた視線が、僕の被写体を見る目を鍛えてくれたようです。写真家になる自信が湧いてきました。

これから生きていく時間の集積がきっと、Mが求めた官能の秘密を僕に明かしてくれるでしょう。
淫らにうごめく道子さんの尻が、折からの斜光で赤く染まりました。カメラを持っていないことが悔やまれますが、今日はどうやら渡良瀬橋の夕日が見られそうです。


次項へ
BACK TOP



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.