4.ヴァイオリン

秋も深まった祝日、私はまた午前九時に起きた。 
彼の家に毎日通うようになって、もう一か月になる。

昨日会社から、私を解雇するとの書留が届いた。そういえば、彼に夜毎責められた疲れで、出勤する日も不規則になっていたようだ。
何日か前、ボーとした呆けた顔で出社したとき、あの木村に言われたことを思い出した。
「ねえ、あんたはパートタイムじゃないんでしょ。いくら有給休暇がたまっているからと言って、バイトに迷惑を掛けるよじゃもう、終いなんじゃない」
私は、へらへらと笑って「そうか、あんたが私の代わりになった方がいいかもしれないね」と応えたが、確かに木村の言うとおりだった。

有給休暇をかさに会社をさぼり続けるのは、確かにもう限界を超えていた。木村がワープロで打ったに違いない、文字で埋まった赤い社判の押された用箋を眺め、私は幾分ほっとした気持ちになった。もう会社のことは気にせず、一心に彼とのゲームを深めることができる。そう思うと今日、鮮やかなブルーに澄み渡った空は、私の危険な心の持ちようを表しているみたいだった。

私は、十三階の窓ガラス越しに見える澄み切った空に全身を晒してみたくなり、力一杯窓を開けた。冷たい外気が私の全身を包み込み、耳の奥でキュッと音がした。
ヴァイオリンの調べが、しばらくぶりに耳に入って来たのだ。
あの夏の日の朝と同じバッハの無伴奏ソナタの一番だったが、今朝はパルティータを弾いている。彼が聴きたかったと言っていたパルティータが、秋の澄んだ大気を渡って清冽に私の耳に届く。既に、奏者が何者なのかを知っている今、あの日のように慌てて外に飛び出す必要もなく、私の目から一筋涙がこぼれた。

彼にまつわる人の奏でる調べが私に、この一か月の異常な日々を思い起こさせる。初めて彼に全裸に剥かれ、後ろ手に縛られ、鞭で尻を打たれ、肛門を苛まれた後、総檜造りの浴室で抱かれてからもう、一か月が経っていたのだ。
その間私は、多くの異常過ぎる出来事を体験してきた。


私は彼の妻の目にさえ、恥ずかしい姿を晒したのだ。
それが朝であったか、昼であったか、夜であったのか私はよく覚えていない。どうして彼の妻と一緒になる羽目になってしまったのかも、ほとんど分かってはいない。全て彼が仕組んだことで、一切が彼の思惑の中にあったことだったから、ただのキャストに過ぎない私にも彼の妻にも、事の経過以外は知る術がなかったのだ。

私は、いつものように素っ裸だった。黒い麻縄で後ろ手に縛られ、床の間に置かれていた。板敷きの床から一段高くなった床の間は畳二帖分ほどの広さがあった。その床の間の端に私は、両足を限界まで広く開き、逆立ちさせられていた。私の体重を支えているのは天井の梁に渡した黒い麻縄できつく縛られた両足首と、床に押しつけられた腕と、押し曲げられた首だった。
逆さ吊りにされた顔の横には大きな青磁の花瓶があり、白い大輪の菊が十数本、無造作に投げ入れられていた。

頭に血が降りて来る苦しさに耐え、目を堅く瞑っていた私の耳に、ドアを開く音と微かな衣擦れの音が聞こえた。
夜毎彼が、前菜を摂るように竹の物差しや皮鞭で打つお尻は、ミミズ腫れの後が癒える間もなく、青黒い痣が日毎つのっていた。私はその傷だらけの尻を今、高く、性器と肛門とともにあらわに晒して、逆立ちの姿勢のまま緊縛されているのだ。
もうそれほど肉体の痛みは感じず、異常な中の異常な彼の優しさに慣れきってしまいそうになっていた私は、聞き慣れない衣擦れの主を見ようと、放心しきっていた意識に活を入れ不用意に大きく目を見開いた。
目を開いたときにはもう、衣擦れの主は私の斜め前に端座していた。逆さ吊りになった私の見上げる目に映ったのは、初めてこの古い家を訪れたときに庭ですれ違った和服の女性だった。
彼の妻は桐生お召しに名古屋帯をきりっと締め、私の存在など露ほども気にせぬ風情で、青磁の花器から白い菊の一輪を、さりげなく手に取った。

流れるような所作で私の頭の前までにじり寄った彼女は、捧げ持った菊を一閃して、剥き出しになったお尻の上で垂直に止めた。なんの前触れもなく、また痛みもなく、研ぎ澄まされた刃で切られた菊の茎がすっと、肛門深く差し込まれた。視界から外れた上の方で、私の呼吸に連れて蠢く大輪の白い菊が、場違いな肛門の花器で揺れているのがはっきり見えるような気がした。

「お見事です」
いつの間に来たのか、私を逆さ吊りに縛り付けたまま、長い時間放置していた彼が現れ、妻をねぎらっている。
何がお見事なものかと私は思った。私の肛門に生けられた花がそんなに見事なものなのか。見事だと言えば、この状況に黙って耐えている私の人格の方が、どれほど見事なことかを知るがいいのだ。しかし、私は黙っているしかなかった。全裸で逆立ちに縛られた私の口には、唇を割って二本の黒い麻縄できつく、猿轡が噛まされていたのだから。
「ありがとうございました」と彼が言うと、妻は恭しく一礼して再び、衣擦れの音も涼しくドアを開けて去って行った。私の存在にも、ましては人格にも一切、なんの注意も払いはしない。私はただ一輪の菊を、肛門という狭すぎる入り口に受ける花器としてのみ存在を許されていたようだ。
妻の目に私を晒し尽くした後、彼が私の肉体に加えた辱めと打ち打擲とは、今更、思い出したくはないものだった。

結局、コンプレックスという一語が、彼の行為を巡る結論として脳裏に浮かんだが、それだけでもないような気もしていた。
彼は、私の肉体を花器に見立てる演出をしたが、決して妻が花を生ける姿ばかりでなく、私の恥ずかしい姿態の全てに、レンズを向けることは、たえてなかった。


私の部屋の、開け放した窓から聞こえるパルティータは未だ途切れてはいなかった。
私は清冽なバッハが聞こえるよう、窓を開いたままカーテンを閉め、部屋の中央に姿見を運んでパジャマを脱いだ。
鏡に映る若い裸身は、かつてと同じように十分美しいと思いたかったが、一か月に渡って彼に責めさいなまれた身体には深い澱のような影が差していた。
彼の好みの菱縄で、いつも縛られる両の手首と二の腕には、縄で擦れた赤黒い染みが消えることがない入れ墨のように残っている。下腹部を見やれば、かつて黒々と豊かだった陰毛は毎日のように剃刀で剃られ、生気を失った性器がユーモラスに露出している。
後ろを向いて振り返ると自慢のお尻が一番先に目に付く。日毎続いた打擲が皮膚の回復を越え、今や漆黒のかさぶたさえ、滑らかだったお尻の曲面に点在していた。
もう私の肉体は美しくはないと、私は確信した。いかに彼が毎日、愛おしむように抱こうが、もう私は美しくはないのだ。それでも私はまた彼の元へと出掛けて行くのか。

今日もきっと、彼のセクシーなバリトンになぶられ、蔑まれ、そして煽られて私は燃え立つのだ。鏡に映った裸身の深奥に官能の炎が微かに見える。その炎に焼かれて私は、未だかつて知りもしなかった世界に、時空を越えた存在の証を求めているのか。
いや、私自身が存在の証として、鞭打たれる尻の痛みや、性器に突き立てられる異物の圧迫感、全身を縛られ支配される刺激的な屈辱感に悶え、感覚と想念の全てを官能に捧げることによって、日常を取り囲む世界とその全存在を、逆に証明しているのだ。

似合いもしない難しい答えを出そうとすると辺りの静けさが身に滲み、日毎彼が招く煌々と明るい冥界への標としてまた、背筋をくすぐるバリトンが今にも、この部屋にさえ響いて来るような気がした。

いつしか、彼のお気に入りのパルティータもやんでいた。
秋空だけがカーテン越しに青く、ひたすら青く目に映え、日常からポッカリ抜け落ちてしまった白々とした私の裸身が一瞬、まっ青に染まった。

目にしみるブルーのせいか、また一筋、私は涙を流した。


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