10.囚われ人

「最近、蔵屋敷に顔を見せないね」
すっかり春めいてきた日差しを背に、白い歯を見せて笑うMの顔が窓枠の中に浮かんでいた。
窓ガラス越しにまた、伸びやかなアルトが聞こえる。

「歯医者さんがおもしろいものを作ったんだよ。私をずっと手放さないで置いておこうと考えたのよ。余りのひどさに笑いたくなるくらいおぞましい物よ。今夜ぜひ見に来てよ。たまにはいいでしょ。何てったって君の両親のすることなんだから、見る義務があるとおもうわ」
僕は机の前に座ったまま顔を横に向けて、ガラス越しに彼女を見ている。立って行って窓を開けようとはしない。逆光になった顔が、いくらか悲しそうに見えもしたが、関心のない目付きでぼんやりと外の景色に見入った。

あの雪の夜から、もう一か月が経っていた。
あれから彼女は蔵屋敷に住み着き、いつも両親の相手をしていた。両親にとっては、Mとの饗宴の時間を縫って診療や家事をしていたと言った方が、現状に近かったかも知れない。僕も行きがかり上、蔵屋敷に顔を出すべきだったが、あの夜の痛烈な印象を整理しきれないまま、彼女と会うことも少なくなっていた。ときおり診療所の受付のまねごとをしている彼女を見たり、たまに家族で囲む夕食の席で一緒になったりはしたのだが、僕の方から視線を下げてしまうのが常だった。

彼女に聞きたいことは山ほどあった。広告の仕事のことや、住まいのこと、そして両親と過ごす時間の意味についてなど、どうしても聞いておきたいことはあった。しかし、後二か月も経たないうちに、僕は都会の歯科大に行くことになっていたのだ。今さら問いただし、新しい生活を始める前に、どうしても整理しておかねばならない問題とは思えなかった。
ぼんやりと広がった視界の中で、静止したわびしい風景に溶け込んで帰って行く、Mの後ろ姿が揺れた。あれほど凄まじい感動を僕に与えた彼女の背は、少し小さく見えた。あの夜の痛烈な裸身に比べ、紺のシャネルスーツがやけに悲しい。

そのとき、怠けきって思考を停止していた脳の隅で、しばらくぶりにピアノの音が響いた。完璧に弾かれるショパンのスケルツォが僕を笑った。
思わず立っていって、薄く埃の掛かったヴェーゼンドルファーの蓋を開けた。あれほど広いと感じられてきた八十八鍵のキーが、まるで箱庭みたいに小さく見えた。

おずおずと最初のAを置く。澄みきった音色が耳に美しく響き渡り、最初のパッセージをクレッシェンドに攻める。
忘れていた音の洪水が頭を走り、少し遅れて僕のピアノが、裏切りもなくその音を追った。まさにヴラヴィシモ。これがピアノっていうもんだと思い、涙がこぼれ鍵盤が滑った。エンディングで大きく外した音は、初めて会った彼女の前で外したあのFだった。途端に涙が止まらなくなり、メロメロになったスケルツォの音色から、彼女の悩ましい姿態が浮かび上がる。

ああ、そうなんだ。そうだったのだと、言葉にできないまま最後のDesをぞんざいに置いた僕は、ピアノの前で立ち上がった。喉元までこみ上げた発声できない言葉を持て余したまま、高々と勃起したペニスを解放すべく、服を脱いで全裸になった。
「すてきよ」と言う彼女の幻聴に酔いながら僕は、一人で夢見るようにMとのセックスを追った。
今けじめなくてはと思いながら、焦るように虚しい絶頂を極めた後、僕は決心し彼女の招待を受けた。もう後ろ姿も見えぬプリマに向かって、僕は大声で「今夜会おう」と叫んだのだ。


静まり返った大気を裂くロードスターのノイズが聞こえた。Mが市街地から帰って来たのだ。
壁の時計とにらめっこしながら待ち、きっちり一時間後に蔵屋敷へと向かった。なぜ一時間待たなければならないのか、はっきりとした理由はないが、一時間を掛けてすべての心構えをしたつもりだった。
とにかく僕は、このまま都会の生活を初めるわけにはいかないと思ったのだ。遠く離れて住めば、両親もMも、それほどの時も要らずに遠い存在になっていくことは分かっていたし、このままその時が来るのを待っているつもりだった。しかし、僕は思い直したのだ。家族も愛しい人も、みんな音楽のようだと、スケルツォを弾きながら思ったのだ。遠く離れれば当然音は聞こえないが、一度聞いて耳を離れなくなった演奏は、時とともにその凄まじい感動を増殖させていくのだ。それが、決して逃れることはできない音楽の魔力なんだ。僕はMに会って以来、すばらしいまでに淫らで寒気がするような音楽を聴き、自らプレーしてしまったのだから、身を引いて時の流れに身をゆだねれば済むことではなかった。時と場所が解決してくれる問題ではなく、きっと僕自身でエンディングの音を置くべきなのだ。その音を激しくフォルテで置くか、そっとピアニシモで置くかが今、僕に問われているのだと思った。

微かに西の空に明るさの残る黄昏の中、僕は黒いセーターとブラックジーンズで決め、蔵屋敷へと向かう。
ようやく咲き始めた梅の香りが艶めかしく漂い、鼻先をかすめる。目を上げると、すぐ近くの枝に楚々とこぼれる白梅の花があった。やはり彼女には紅梅が似合うなと思ったが、手を伸ばして枝を折り、壊れそうなほど薄く白い、小さな花に顔を寄せた。ふくいくと香り立つ白い梅の花にMのルージュがだぶり、真紅に染まる。花の香りが消え失せ、ゲランの匂いが彼女の体臭とともに甦った。すべての臭いを消したあの雪原に漂うMの匂いがまた、彼女が吊されていた梅の木から香り立つ。脳裏に浮かんだ凄惨な記憶に猛り立つペニスが、スリムのブラックジーンズの中で泣く。だって、僕のプリマが待っているんだ。

白梅の枝を手に持って、自動ドアの前に立った。すっと開いたガラスドアに気をよくして、足早に控えの三畳間をやり過ごし、座敷の扉を開け放った。
目の前に広がる二十畳の座敷の中では、ひとつき前と同じ異様な光景が繰り広げられていた。
目に映った三人の男女は皆、素っ裸だった。一人は僕の父で、もう一人は母、そしてMは鎖に繋がれていた。
そんな三人が僕を笑って迎えている。荒廃しきった空気が押し寄せ、僕を覆い尽くそうとする。ぎょっとして、手に持った白梅の枝を床に落としてしまった。白く小さな花が、二つ三、足元に転がる。
ここで逃げ帰らねば、ひょっとして都会の新しい生活に入っていけなくなるのではという恐怖が、脳裏をかすめた。しかし、一切を見ること、見た物の中から判断し決断することが僕に課せられた義務だと思い、一心に目を見開いてすべてを見た。そう、それが僕自身に課した義務なのだ。

ソファーに二人で掛けてにやにやと、年相応に汚れた歯を見せている両親の裸身はみすぼらしかったMの裸身だけが生き生きと輝いている。
彼女はソファーの前の床に素っ裸で四つん這いになり、尻を高く掲げていた。いつの間に折り合いが付いたのか、シェパードのケンが彼女の横で激しく尻尾を振った。僕を認めて、低くウーと唸る。まるでMを中心とした三人を守っているようだ。もう僕は、まるで異邦人のようだった。
白く光り輝く裸身を誇らかに晒し、四つん這いのまま微笑んでいるMの姿をじっと見つめた。
彼女の両手首は、五十センチメートルほどの銀色の手鎖で繋がれている。両足もまた、一メートルほどの間隔で太い鎖で繋がれていた。足枷となった鎖の中央からは別に一条、細い銀色の鎖が尻の割れ目へと伸び、足元で垂れ下がっていた。僕の位置からはよく見えないが、恐らく鎖の端は、肛門か性器に挿入された異物と繋がっているに違いなかった。

陰惨な光景を、また見ることになるのかと、うんざりすると「ずいぶん遅かったじゃないの。ご覧の通り、私はチチとハハの囚われ人になってしまったわよ」と、意外に愉快そうなアルトが耳を打った。
「せっかくピアニストが来てくれたのだから、皆さんが私の身体にしたことを、はっきり見てもらいますね」
新しい調度を客に見せるように、平然と言ったMが四つん這いのまま姿勢を変え、僕の眼前に大きく開いた裸の尻を向けた。
思っていた通り、薄いピンク色をした肛門から突き出した金属の棒に、鎖が繋がっていた。見開いた目を閉じるいとまもなく彼女が立ち上がり、足枷の幅一杯に足を広げた。卑猥に開いていた尻が閉じ、高く上がった美しい尻の割れ目から延びた銀色の鎖が、両足の間に渡された太い鎖の中央に繋がれている。股間に延びる鎖が短いため、Mは中腰のままだ。

あっけにとられ、状況の認識もできぬ僕に追い打ちを掛けるように、珍しく父が話し掛けた。
「やあ、久しぶりに蔵屋敷に来てくれたね。私たちはMに、一生ここにいてもらうことにしたんだ。犬に首輪が必要なように、彼女にも相応しい物をと僕が考え、ようやく完成させたんだよ。よく見ていって欲しいもんだね」
ほとんど理解を超えた言葉を一方的に発声した父が、厳しい声でMに命令を下す。
「息子によく見えるよう、足を開き、尻を上げて跪きなさい」
彼女は従順にうなずき、また四つん這いになって尻を高く掲げる。
肛門から突き出た金属の棒の端に父が鍵を差し込んで錠を解き、長さ十センチメートルほどの金属棒を引き抜いた。太さは二センチメートルはある。
「ほら見てご覧。鍵を回すと傘のように開くんだよ」
父が、銀の鎖の付いた金属棒の鍵を得意そうに回す。先の尖った金属棒の三分の二ほどが外に開き、直径五センチメートルほどの傘ができた。この傘が肛門の中で開いたのでは、どうやっても抜けるはずがなかった。

「言った通りでしょう。チチはいい物を作ってくれたわよ。お陰でウンチをするときも、君の両親に頼んで栓を外してもらわなくてはならないのよ」
意外に楽しい調子のアルトが、訴え掛けるように流れた。
「さあ、また装着するからね。お尻の穴を大きく開きなさい」
錠を回して傘を閉じた父が、陳腐な台詞を言う。
「はい」と、しおらしく答えたMは、四つん這いになった尻をより一層高く掲げる。
父は、左指で肛門の括約筋を押し開き、右手に持った金属棒の尖った先を慎重に中心に当て、恭しい手つきでゆっくりと、異物を肛門の奥へと挿入した。

もう僕は、ばからしさに笑う気にもなれない。両親もMも、いったいどうなってしまったのか。そっと、黙ったままでいる母の顔をうかがってみた。
母は苦虫を噛み潰したように、面白くもなさそうな顔付きで、父とMの成り行きを見つめている。いくらかは、当てに出来るほどの理性が残っているのかと思った瞬間。
「早くその女を繋いで帰ってきなさい」
父を叱責する厳しい声が飛んだ。
肛門に差し込んだ金属棒の鍵を回し、恐ろしい傘を彼女の体内で開いて鍵を抜いた父は、そそくさと母の元に戻って行く。

素っ裸のままの両親は、息子の前で、一切を忘れ去ったように抱き合い、緩慢な動きでセックスに励みだしたのだった。そんな両親の動きを横目に、鎖に繋がれたMが中腰に立ち上がった。肛門から延びた短い鎖が邪魔をして、真っ直ぐに立つことができないのだ。折れ曲がった裸身の前で、銀色の手鎖が悲しく音を立てた。

その哀れな格好を目にして、肛門の中で広がっている直径五センチメートルのおぞましい傘の感触が僕の感性に伝わり、肛門がきゅっと締まった。勃起したペニスの先がぐっと震える。
「ピアニストもこれでよく分かったでしょう。君の両親は私を虜にして、一生手放さないつもりなのよ」
「あなたはそれでいいんですか」と、僕は情けない質問を返してしまった。
「私は別に構わないわ。求められているんだから。今の状態で不満なことは、自由にウンチができないことだけよ」
「自由を捨てる価値があると言うことですか」
また陳腐なことを聞いてしまった。
「ピアニストはまだ、性の本質が分かっていないみたいね。自由だろうが不自由だろうが、性の喜びには関係ないのよね」
「でも、あなたにとって性の喜びがあるとは思えない」
「やっぱりピアニストの視野が狭いとしか言えないわね。性の喜びには何でも有りって言ったでしょう。ダイレクトに、ペニスを擦り付けて得られる喜びもあれば、想像力の高まりの中で得られる喜びもあるのよ」
「一人の方が想像力は高まりますよ」
「君のマスターベーションのことかな。確かにそういう面もあるけど、やはり人と人との関係の中にしか、本当の官能の高まりはないと理解した方が正しいのよ。多分煩わしくもあり、傷つくこともあるけれども、人と人とのせめぎ合いがあって初めて、性は淫らでおどろおどろしく魅力的なものになるものよ」

「あなたの鎖に繋がれた姿や、肛門に差し込まれた異物が理想的な性とは思えないな」
「ただの好みの問題よ。私は刺激的な方が好き。ただそれだけ。別に無理強いはしないわ。でも、私を哀れんだり恥ずかしいと思ったりはして欲しくはないの」
「あなたの言うことには、やはり無理がある。できることなら、僕は、大好きなあなたと、ごく普通に、愛し合いたいと願っているんです」
僕は頬を赤く染め、猛り立ったペニスに途惑いながら、しかし、はっきりと言ったのだ。
「そう、無理かな。でもいいや。鎖に繋がれた私の姿をよく見ておいて。そして、官能に燃え立つ身体をよく記憶しておいて欲しいの。私は誰にも独占されはしない。ただ、全身で楽しめる環境を求めているの」
Mが言い切ったとき、助けを求める父の声が彼女の名を呼んだ。
反射的に、鎖を鳴らしてMが急ぐ。思うようにならない父のペニスを、口に含んで甦らそうというのだ。

はっきりとMに問い掛けた、求愛に対する答えはなかった。
僕は分からない。息子を前に性の喜びを追う両親の姿は、考えようによっては微笑ましくもあり、僕が自立さえすれば見過ごせることだとも思うが、それを手助けするMの異様な姿は、とうてい容認できるものではなかった。
それが、官能のプリマのボランティアイズムなのか。僕には理解できない。なぜ彼女は僕に、二人だけの普通の性を与えてくれないのか。
寄る辺ない愚痴ばかりがつのり、微かに憎しみが芽生えた。
蔵屋敷の中で絡み合う素っ裸の三人を後に、出口の所まで行って振り返った、服を着た僕の目に、荒廃しきった光景だけが白々と寒く映った。


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