11.海へ

都会へ移り住む準備はすべて、僕だけでやった。

父も母も、Mとの性生活だけにかまけ、僕の学業ばかりでなく、毎日の暮らしにも構わなくなっていたのだ。恐らくこの三週間は、診療所も開けられることがなかったはずだ。この間、たまに一緒に囲む食卓などで、四人が揃うことはあったが、会話は弾まなかった。

何かが狂っているとしか思えなかったが、食卓のMは裸のままだった。
手鎖に繋がれ、足枷を付け、肛門から足枷の中央へと延びた短い鎖が、彼女を常に中腰にさせていた。椅子に掛けるときの彼女は、慎重にゆっくりと腰を下ろし、肛門から突き出た金属棒を、自分の体重で肛門の奥へと呑み込むようにして座っていた。そんな状況の中で、会話が進むはずもない。ただ、会う度に光を増して眩しくなる、場違いな裸身の美しさだけが怪しく魅力的だった。

それに引き替え、父と母の荒廃振りは、目を見張るものがあった。二人とも仲睦まじいことは結構なのだが、その異様なほどの痩せ方と憔悴の深まりは、目を被いたくなるくらいのものだった。確実に、何か不吉なものが進行している気配が感じ取られたが、それが何なのかは皆目分からなかった。
春が深まり、温かくなるに連れて一層、僕の周りの一切が冷たく寒く荒廃の度を深めて行くようだった。白々と輝きを加えていくMの裸身さえ、寒々とした痛みのような感覚を増幅させていた。


ヒーターも要らないほどに暖かな宵だった。
都会への旅立ちを三日後に控え、気持ちの高ぶりに眠れぬまま、ベットから起き上がり窓際へと立って行った。
僅かにカーテンを開け、外の闇をうかがう。
相変わらず裸のままのケヤキの梢越しに、暖かそうなまん丸の月が掛かっている。窓を開ければ、春の匂いが漂ってくるような、心優しくなる、懐かしい感情が足の先からこみ上げて来た。

幼いころ絵本で見たような、ほのぼのとした風景に漂わせていた視線の隅に、月明かりを浴びた蒼い影がかすめた。ぎょっとして、窓ガラスに額をぶつけて影の方を見ると、中腰になって足枷を引きずり、よちよちと歩いて来るMの裸身が、月の光の中に浮かび上がった。
慌てて窓を一杯に開き、身を乗り出すと、冷たい外気が全身を打った。まだそれほど暖かいわけではない。

窓の下まで来たMは、肩で息をしながら僕の顔を見上げ、かすれたアルトで訴えた。
「部屋に入れてちょうだい。ちょっと相談したいことがあるの。いいでしょう」
もちろん構いはしないが、いつだって彼女の行為は唐突で、僕をどぎまぎさせる。

「早く下に降りて抱え上げてよ。私はこんな格好なんだから、一人では上がれないの」
一瞬僕は、ぽかんと口を開けたままでいた。窓から客を出迎えに行くなんて、考えたこともなかった。まったく彼女のすることはすべて、常識を外れている。

威張るように言う彼女の言葉に呆れながらも、僕は窓を乗り越え、素っ裸のまま地面に降りた。
本当に久しぶりに、素っ裸の僕のすぐ前に、素っ裸の彼女が立っている。あの雪の夜以来のことだった。僕はうれしくなり、大きく深呼吸した。

「あれ、ピアニストは裸で寝る習慣なの。いい習慣だね。でもペニスは小さいままなんだね」
場所柄を考えない彼女の言葉を無視して両手を広げ、中腰のままのMを抱きしめた。
冷たい肌の感触が心地よく僕の裸身に張り付く。即座に勃起したペニスを振り立て、腰を沈め、中腰になった彼女の陰部へと突き立てる。行きすぎたペニスの先が、肛門に挿入された金属棒から延びる冷たい鎖に触れた。ペニスが痛み、異様な現実がやっと、僕を包み込んだ。

ぎこちなく腰を引いて身体を立て直した。さりげなくそっと、うなじに顔を埋めようとすると、首に巻かれた首輪が目に入った。シェパードのケンに付けられていた皮の首輪が、ほっそりとした首にはめられていた。首輪から伸びた紐が途中で切れ、足元へぶら下がっている。

「歯で食いちぎって来たのよ。夜は後ろ手錠にされるから、歯しか使えないのよね」
僕の視線に気が付いたMが、素っ気なく言った。
身を引いて後ろに下がり、全身を見る。ケンの首輪の下に豊かな乳房があり、ツンと立った二つの乳首が並んでいる。なだらかな肩先が見えるだけで、胸を張ったままの両手は背中に回されていた。背後に回って見ると、ちょうど尻の上で、手錠が後ろ手に掛けられていた。これでは、窓から上がれないどころか、横になることさえ大変なようだ。平気な顔をしている、彼女の神経を疑いたくなってしまう。
妙に白けた気分になったが、黙って頷き、尻に手を回して抱き上げる。剥き出しの尻の割れ目から延びる鎖が邪魔で、二回ほど抱く位置を変えた。

彼女を抱き上げるのも雪の日以来のことだ。しかし今夜は、それほどヒロイックな気分にはなれなかった。シチュエーションが違うだけではなく、何か、僕の身体の中で、異常な状況を拒絶する気持ちが芽生えたせいらしかった。
全身に力を込めてMの身体を窓に押し上げると、鈍い音がして、彼女は部屋の床に落ちた。


ヒーターを入れた僕の部屋は、急速に温まっていく。
明かりはつけない。窓から射す青い月明かりが、部屋の中をぼんやりと照らし出している。窓際のカーペットの上で、月光を浴びた白い裸身が横座りになっている。

「明後日はもう都会に行くのね」
下を向いたままMが、妙にしんみりと口を切った。
「できれば、あなたに一緒に来てもらいたいと思っています。でも、異様な格好をしたあなたでは嫌だ。普通のあなた、当たり前のあなたと一緒に過ごしたい」
「今夜のことを言っているの。それは、だめみたいね。歯医者さんの執念のこもった肛門栓は、鍵がなければ抜けないのよ」
「そういう異様な言葉も、聞きたくないんです」
「ピアニストは、まだ大人の性が分からないのね。きっとナイーヴ過ぎるのかも知れない。悪いことではないけれど、もっと多くの事を知ることも大事よ」

「あなたは、僕の好みの官能を高めることも出来るはずです」
「そうね。今回は優先順位が違ったけれど、そういう事も考えられなくはなかったわね」
「僕と都会に行ってくれませんか。あなたなら都会でも十分生活できるし、僕もバイトをします。本当の官能の高まりを教えてください」
「官能は教えてもらって高まるわけじゃあないわ。自分で高めていくものなの。君の両親を見て見ればいいわ。誰が何と言ったって、自分たちの高まりの世界を離そうとはしなかったわ」

「どうしても、僕を愛してはくれないのですね」
「そういう問題じゃあないでしょう。私はピアニストを愛しているわ。でも、好みに合わない性を押し付けられるのはごめんなのよ」
「じゃあ、今夜はどうして訪ねて来てくれたんですか」
「だから、相談したいことがあるって言ったでしょう」

Mはまたしばらく沈黙した。背後から浴びた月光で滑らかな裸身が青く輝き、まるで夜光虫と遊ぶ人魚みたいだった。後ろ手錠に緊縛され、肛門栓を避けるように横座りに座る全裸のシルエットが、陰惨な現実を越えて、僕を優美な夢へと誘う。

「実は、君の両親が私を殺すことにしたのよ」
「えっ」と言ったまま、僕は絶句した。
「はははっはっはは、そんなことないですよ」
「本当にそう思う」
厳しい声が部屋中に響き、驚いて見つめたシルエットの中で、彼女の大きく見開いた目が一瞬赤く光った。
「ええ、多分、」と、口の中でもごもごと呟きながら、こんな真夜中に首輪に繋がれたロープを噛み切ってまでやって来た彼女と、日毎憔悴し、尖りきっていく両親の顔とを思い浮かべてみた。

ずいぶん長い時間考えてみたが、絶対に有り得ない事とは思えないような気になってしまった。
両親には申し訳なかったが、常軌を逸しすぎた、追い込まれた状況に身を置いてしまった二人が、短絡的に局面の打開を考える場合も有ると思ったのだ。
Mの言うように性には何だって有りなのだし、両親とMの間には性以外の関係はなかったのだから。

「詳しく聞かせてください」
覚悟を決めて、しっかりとした声で尋ねると「詳しいことなんか知らないわよ。君の両親のすることなんだから、私が知っているわけがないでしょう」と突き放す。
「それでは話になりませんよ。知っていることだけでいいんです。あなたの想像でも構わない」
話すことを整理するように、首輪のはまったうなじを傾けたまま目をつぶっていたMが、静かな口調で言った。

「ピアニストは、前の事件のことは知っているわね」
僕は黙ってうなずいた。彼女の過去が苦しかった。
「あのとき、築三百年の屋敷の主はカメラマンで、そのカメラマンが崖から海に身を投げて死んだのよ」
彼女に似合わない混乱した話し方の中に、彼女の特別な過去が込められているのだと思った。
「君の両親は明日、私をその断崖に連れて行くの。きっと、この姿のまま、私を海に突き落とすわ。これが私の知っているすべて」

何か、はぐらかされたような感じだった。
父と母と彼女が明日、日本海に行くのだという。確かにみんなが知っている事件の舞台になった日本海に、その当事者を交えて行くというのは尋常ではない。しかし、その同じ舞台で、両親がMを海に突き落とすという話しもまた、突飛すぎた。
「そこで相談というのはね、明日、ピアニストにも一緒に行ってもらいたいという事なの。歯医者さんたちが罪を犯さないように、私をガードしてもらいたいのよ」

変な成り行きになって来たと僕は思った。しかし、筋書きは完璧に出来上がっていて、僕が引く逃げ道はなかった。たとえ一瞬でも、両親がMを殺すという想定を認めてしまった僕の負けだ。
「一緒に行きますよ。ほかに方法はない」
「ありがとう。ピアニストはやっぱり優しいのね。でも、両親がだめと言っても来てくれなければ大変なことになるのよ。そして、明日の朝は多分、君が寝ているうちに早く発つと思うの。眠っちゃだめよ。よく見張っていて、必ず一緒に行くのよ。きっと、当日の私の格好を見れば、私の言ったことが正しかったと分かるわ。素っ裸で手枷足枷をはめられ、肛門に金属棒を突っ込まれたままの姿で連れ出されるはずよ」
妙にねじ曲がっていく彼女の論理は聞きたくなかったが、僕は完全に出口なしだった。

「じゃあ、私は帰るから。寝ないで待っていてね」と言って彼女は腰を上げる。「僕が送っていきますよ」
「だめ。ピアニストはドジだから、きっと両親を起こしてしまうわ。その場で計画が変わり、君の目の前で殺されてしまうかも知れない」
「そんなことはないでしょう」
「いや、分からないわ。それよりピアニストはピアノを弾いてよ。チチとハハは意外に君のピアノが好きなのよ、きっと安心して眠りこけるわ。ぜひ、そうしてちょうだい」
仕方なく僕は、彼女をまた抱え上げ、窓からそっと地面に下ろした。

さっきより幾分傾いた月が、斜めに青い光をこぼす。その光を顔の半分に浴びたMが僕の顔を見上げて、いたずらっぽく片目をつむった。
彼女は素っ裸のまま中腰になり、足枷に足元を取られないようによちよちとユーモラスに、背中で繋がれた手錠を揺すりながら遠ざかって行く。
僕は疲れ切った神経を抱いて、律儀にピアノの前に座る。どこまでお人好しなんだろうと思いながら、埃の積もった蓋を開けた。さっと両手を出し、スケルツォを弾こうとしたが、そんな気分にはなれない。しばらく鍵盤とにらめっこをしてからそっとHの音を置いた。

ショパンのエチュードから「第三番ホ長調・別れの曲」を弾き始めた。珍しくゆったりと、恥ずかしげもなく感情を込めて彼女のためだけに、別れの曲を月明かりの中で弾いた。


白いセーターにホワイトジーンズと、白で決めて待っていた僕の耳に、ベンツの低いエンジン音が聞こえてきた。
まだ夜明け前だ。Mの言っていたことが一つ当たった。
慌ててコンバースのワンスターに両足を突っ込み、紐を締めるのももどかしく窓から飛び降りる。もちろん白のおニューの靴だ。今朝のアンダーは真紅のビキニ。気合いが入っていた。

眠らずに考え続けた結果。やはり彼女との最後の時に賭けようと思ったのだ。何が起こっても、二日後には都会に向かうつもりだった。

全力疾走で蔵屋敷へと向かう。
街道へと続くアプローチに走り込んだとき、左手に続く梅の木をヘッドライトで照らしながら、大きくカーブを切ったベンツが現れ、僕の直前で急ブレーキを踏んだ。
運転席のドアが開き、地面に立った父がじっと僕を見つめる。
「僕も連れてってもらうよ」
大きな声で叫ぶと、父の肩が大きく落ちた。すかさず後部ドアが開き、母が姿を見せる。
「だめっ」
僕の声に負けないほどに叫ぶが、知ったことではない。父が車から降りているのをいいことに、母と反対のドアに素早く回り込む。車窓越しに、鎖に繋がれた手がロックを外すのが見えた。
さっとドアを開け、身を滑り込ませ、ドアを閉める。シートに横になった身体を立て直すと、すっとMが身を寄せてきた。周りにも気を配りながら、さっと彼女の様子をうかがう。彼女は煤ぼけた灰色のポンチョのようなものを被っていた。ドアロックを外したときに乱れたのか、前がめくれ上がり、両手を繋いだ手錠と、股間から延びた鎖が目を打った。ポンチョの下はやはり全裸だった。
Mの言ったことがまた一つ当たった。

車外に片足を踏み出したままの母が、父に歩み寄ろうと外に出たが、タイミング悪く父はもう、運転席に着いてドアを閉めてしまっていた。閉め出されてしまった形の母は無言のまま、しばらく外に立っていたが、ふーと大きく溜息を付いて車内に戻り、ドアを閉めた。
その間僕は、Mのポンチョの乱れを直し、ちゃかり右手を下に潜り込ませ、彼女の両手に握らせていたのだった。

手に触れる手錠の感触が痛々しかったが、ちょうどデルタの真上にある僕の手に、彼女の陰部から立ちこめる温気と、しっとりとした湿気が触れ、汗が滲み出しそうになる。汗は恐らく、微かに触れる上を向いた陰毛を伝い、彼女の体内に吸い取られるのだ。僕は時が止まってもいいと思った。いい気なものだ。

「どうするんだい」
精気のない父の声が車内に響く。
「予定通りよ」
無感情な声で母が応え、月が落ちた漆黒の闇の中をベンツが発進した。
予定通りと言う母の声が、もう一つのMの予言の正当性を認めるようで不吉だった。しかし、今日の僕はボデーガードなのだ。依頼者の利益は守らねばと、映画のケビン・コスナーみたいに眉間に皺を寄せようと頑張ってみた。だが、隣のMからは「すてきよ」と言う声は掛からず、微かに震えている股間が不吉な印象をさらに高める。

ひょっとして彼女は、本当に怖がっているのかも知れない。そう思うと射精しそうなまでに固く張り切っていたペニスまでが、急速に萎んでしまう。その時、僕の手を握った両手にぐっと力がこもった。なんて事はない、やはり僕が彼女に励まされていた。

春の夜明けが、西に向かって走る車を追い掛けて来る。
東の空が漆黒から紺、そして紫に変わり、山の端にたなびく雲が紅と灰色に交互に彩られるころには、目を上げて見る天空は一切が蒼天に変わり、巨大な青い屋根となっていた。短時間に繰り広げられた色彩の魔術は、行く末分からぬ僕たちの旅路を彩る花火のように、僕らを歓迎しつつ、どこかで拒絶しているように思われた。

沈黙が支配した車内に、V八エンジンの眠くなる振動だけが低く響く。
いつしか高速道路に乗り入れたベンツは、さりげなくスピードを上げて西に向かった。もう放っておいても時間の問題で、日本海に達して道が果てるはずだった。

Mの言った方角もまた、当たっていた。
やはり両親は、淫らに憔悴しきった生活にピリオドを打つため、Mを日本海に突き落とすつもりなのか。それとも、僕が彼女を守り通すことができるのか。
父と母が万一、Mを海に突き落とそうとしたとき、僕は本当に止めることができるのだろうか。
ボデーガードを気取ったつもりの僕に、様々な疑念が押し寄せて来る。
そんな不安にはお構いなく、時は瞬く間に流れ、車内に入り込む空気が北の海の香りを伝えてきた。
また負けるのだ。こうして僕は負け続けていくのだと、なぜか思った。特に自分の考えがあるわけでもないのに、思うにまかせぬ無力感に身を焦がした。救いを求めるようにMと握り合った手に力を込めた。

すぐ握り返された手に、車内の暑さを越えた懐かしいぬくもりを感じ、ふと「別れの曲を聴きましたか」と尋ねてしまった。
初めてベンツの中で発せられた自分の音声が、車内にこだまするエコーのように何回となく耳に響いた。
「悲しい調べね」
か細いアルトが、真っ直ぐ耳に突き刺さる。
悲しい調べと言ったMの言葉が、頭の中で駆け回り、身体を鞭打つ。突き立ったペニスを皮鞭で一閃されたような痛みと衝撃が全身を襲った。僕のピアノよりきっと、今聞いた声の方が数倍悲しいものに相違ないと僕は思った。そうでなければ今、僕はここにいる資格もない。ひたすら煩わしさを避け続け、情けない気持ちを抱いてマスターベーションに耽るしかないと思ったのだ。

たまらなく身近に感じたMが愛おしく。「好きです。愛しています」と、デルタに置いた右手を握りしめ、指の間に入った陰毛を引っ張りながら言ってみた。
もう、両親の思惑も気にならない。鎖に繋がれ、肛門から金属の棒を突き出している、彼女好みのファッションも気にならなかった。ただひたすら彼女が好きで、ペニスを突き入れたい気持ちだけが一心につのっていた。
「私もピアニストが好きよ」
期待した通りの答えに全身が震え、彼女を覆っているポンチョを引きむしり、輝く裸身に覆い被さっていった。

「お待ちなさい」
母の金切り声が響き渡る。
しかし、僕はシェパードのケンではない。待てと言われてそのままになったのでは、人間ではなくなると思った。少なくとも、一切を賭けて、ただ一人の女性と合体したいと決心した男のすることではない。
鎖に緊縛された身体に激しく挑んだが、狭苦しい車内で自由が利かず、肛門から続く鎖に、したたかペニスを打ち付け、射精してしまった。

「いつも元気なんだね」と言って頭を撫でるMの仕草に母を感じ、隔てて座る冷たい母を憎もうと思った瞬間、車が止まった。

顔を上げて前を向くと、フロントガラス一杯の海が広がっていた。深い緑色に染まる日本海が、上半分のコバルトの空の下で、朝日を浴びて輝いていた。崖っぷちで止まったベンツのエンジンが、鼓動のように振動を伝えるが、僕の目は真っ直ぐ、広がりきった海に注がれたままだ。

ドアが開き、父と母が外に出て行く気配がした。潮の香りが車内に満ちる。
「あの人たちはね、私を突き落とす断崖を下見に行ったのよ」
遠くMの声が聞こえた。
僕の目には、緑色に悶える海しか映っていない。

「君の両親はいなくなったよ。早く鍵を取って、私を自由にして。たまには人目のないところでウンチがしたいじゃない」
広々と広がる海の前では、Mの声も煩わしい。あれほどまでに恋い焦がれた激情は、いったいどこに行ってしまったのだろう。
「どこに鍵があるんですか」と素っ気なく聞くと、前の運転席に脱ぎ捨ててある父のコートを、手錠を掛けられた両手でせわしなく指さす。
「そのポケットに入っているわ」
身を乗り出して取ったカーフのコートのポケットから、ちっぽけな鍵が出てきた。こんなちっぽけな鍵を真剣に求めるMが、かわいそうでならない。

求められるまま、ちっぽけな鍵を彼女を拘束した手枷と足枷の錠に差し込み、緊縛を解放した。落ち着く間もなく、狭い車内でシートに四つん這いになり、剥き出しの尻が目の前に突き出される。幾分閉口しながらも、僕は大きく開いた肛門の肉襞から突き出している金属棒に鍵を差し込み、肛門内で直径五センチメートルに開いた傘を閉じて、鎖の付いた金属棒を引き抜いた。

「ありがとう」と言った彼女は、そのままドアを開いた。
フロントガラスに広がる海に向かって、伸びやかな裸身を踊らせて駆けて行くMが見える。あっけない幕切れだった。
彼女は剥き出しの尻を突き出したまま、お礼の言葉を言ったのだ。白く豊かな左右の尻と、割れ目ですぼまっていた真紅のつぼみ、挑発する性器と黒々とした陰毛。たとえトイレに行くとは言っても、僕の目に残して置くものは、ほかになかったのだろうか。

やはり僕は負け続けるのか。
ほんのりとしょっぱい、潮のような苦さが口中に溢れ、目の前には、ゆったりと波打つ海だけが残った。


しばらく時が経ったが、トイレに行ったはずのMは戻らず、もっと前に車外に出た両親も帰っては来なかった。
いわくある断崖で帰らぬMと両親が急に心配になった。
もう枷は外してあるとはいえ「チチとハハが海に突き落とす」という最後の予言が頭をかすめる。
増殖した不安に耐えきれず、慌てて車外に飛び出していた。

思っていたほど外は寒くなく、海から吹き付ける冷たい風と強い日差しが、季節の主導権を争うように綱引きをしているようだった。そんな、のんびりした気持ちが似合う断崖沿いの道を、急いで海へと降りて行った。
小石につまずき、僕が海に落ちそうになったとき、崖の上で吼えるようなエンジン音と、タイヤが小石を蹴立てる凄まじい音が鳴り響いた。
慌てて戻ってみると、崖から五十メートルほど離れたなだらかな丘の上にベンツが止まっている。運転席のドアが大きく開き、素っ裸のMが颯爽と、光の中に降り立った。
全身に浴びた強い日差しに、真っ白な肌が輝いている。
逆光の中で長い髪が海からの風に舞ってきらきらと光り輝き、きめ細やかな肌が美しく透けて見えるようだ。
最高の裸身だった。

いつの間にか、僕の回りに集まって来た父と母も、丘の上のMを眩しそうに見つめている。
「ざまーみろ。おまえらに殺されるわけにはいかないんだ。でも、本当に仲がいい家族で感心したよ。私の出る幕じゃあなかったみたいね。謝礼代わりにベンツはもらって行くわ。それからピアニスト。情けないショパンをありがとう。絶対忘れないからね」

最高に澄みきったアルトが空と海に流れた後、ベンツのエンジン音がひときわ高く断崖にとどろき渡り、僕たち家族が取り残された。
初めに父が笑い出し、僕が続いた。しまいに母も高らかに笑い声を上げ、一瞬、断崖に笑い声が満ちた。

この笑いの中にMも混じっていたらと思うと、なぜか僕は悲しくなった。
Mに利用されきった自分を哀れむ気持ちはなかったが、いつかどこかで、大人になった僕を見てもらいたいという気持ちがつのった。
その時は別れの曲ではなく、最高のスケルツォを聞かせたいと思ったのだ。



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